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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前・中期の俳人。尾張犬山藩士の家に生まれ、松尾芭蕉に入門し蕉門十哲の一人となった。芭蕉没後は義仲寺に仏幻庵を結び、師の追善に生涯を捧げた。

生涯

内藤丈草は寛文2年(1662年)、尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として現在の愛知県犬山市に生まれた。名は本常(もとつね)、通称は林右衛門、号を丈草、別号を仏幻庵などという。幼名は林之助、のち庄之助と称した。3歳の時に母を亡くし、父は再婚したが、継母には多くの子供が生まれ、丈草への両親の愛情は薄かったという。

丈草の父源左衛門は、元来は越前福井の貧乏武士であったが、実姉の松寿院が成瀬正虎の愛妾となって一子をもうけた縁で、成瀬家への仕官が許された。しかし、この幸運は長続きせず、藩主の代替わりと松寿院の死によって状況は変化した。丈草の従兄弟にあたる松寿院の一子直竜は尾張徳川家に養子に出されたが、狂疾を口実に蟄居させられ失脚するに及んで内藤家も没落の憂き目を見た。延宝3年(1675年)、丈草は病のため蟄居した尾張徳川家寺尾土佐守直竜の看護役として父子共に仕えることとなった。寺尾直竜は俳諧を嗜み、不木と号した俳人であった。

18歳頃、丈草は名古屋に遊学し、穂積元庵に漢学を学んだとされる。こうした度重なる不運の中で人生のはかなさを知った丈草は、貞享5年(1688年)8月、27歳にして武士を捨てて遁世し、近江松本に棲んだ。遁世後は玉堂和尚ゆかりの寺院で過ごした。

俳句歴

貞享3年(1686年)、丈草は芭蕉に句を送り指導を乞うた。3年後の貞享末年から元禄初年頃には、『奥の細道』の旅から帰った松尾芭蕉に出逢い、落柿舎に芭蕉を訪ねて入門した。元犬山藩士でもあった仙洞御所に勤める史邦を通じて去来経由で蕉門に入ったものと考えられている。やがて、芭蕉から『猿蓑』の跋を執筆するほどの信頼を得るに至った。元禄4年(1691年)には『猿蓑』に発句十二句が入集し、跋文を記している。元禄6年(1693年)には膳所義仲寺境内の無名庵に入り、芭蕉の近江滞在中は芭蕉の身辺で充実した時間を過ごした。『初蝉』や『有磯海』などにも入集している。

元禄7年(1694年)、芭蕉が亡くなると、丈草は同門の士と共に遺体を義仲寺に納め、無名庵に留まって三年の心喪に服した。元禄9年(1696年)には、芭蕉の眠る義仲寺のほとりの長等山麓に仏幻庵を結んだ。元禄13年(1698年)には義仲寺の芭蕉七回忌追善俳諧興行に参加し、亡母三十七回忌墓参を兼ねて犬山に帰郷した。その後、美濃各地を巡遊している。元禄14年(1701年)には、閉関禁足三年の誓いを立て、芭蕉追悼に法華経千部読誦と経塚建立を決意し、『諸国翁墳記』を執筆した。詩禅一致の道をひたむきに求めながらも、芭蕉の死後から自らの死までの10年間をひたすら師の追善に生涯を捧げて世を去った。元禄17年(1704年)2月24日、43歳で没した。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
内藤丈草 -- Wikipedia 内藤丈草ないとう じょうそう -- Web書画ミュージアム 内藤丈草 -- Who'sWho

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名本常(もとつね)
別号仏幻庵
通称林右衛門
生没1662 〜 1704

基準
向き
件数

現在、37句の俳句が登録されています。

    • 朧月 おぼろづき
      季節: 春(三春) 分類: 天文(天空)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 春
      p.37
    • 柳 やなぎ
      季節: 春(晩春) 分類: 植物(キントラノオ目)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 春
      p.172
    • 夕立 ゆうだち
      季節: 夏(三夏) 分類: 天文(水)
    • 角川ソフィア文庫 第4版増補 俳句歳時記 夏
      p.43
    • 時鳥 ほととぎす
      季節: 夏(三夏) 分類: 動物(鳥類)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 夏
      p.234
    • 鍬始 くわはじめ
      季節: 新年(新年) 分類: 人事(労働)
    • 文藝春秋 最新俳句歳時記 新年
      p.71