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俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和にかけて活躍した小説家・劇作家・俳人。東京の下町を舞台に情緒豊かな作品を生み出し、文学座創立に参加するなど演劇界でも重きをなした。

生涯

久保田万太郎は1889年(明治22年)11月7日、東京府東京市浅草区浅草田原町三丁目(現在の東京都台東区雷門)に生まれた。生家は「久保勘」という袋物製造販売(足袋)を営む商家で、常時15、6人ほどの職人が働く活気ある店であった。浅草馬道の市立浅草尋常高等小学校を卒業後、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)に進学し、一級下には後の親友となる芥川龍之介がいた。

1906年(明治39年)、進級試験で数学の成績が悪く落第したため中退し、慶應義塾普通部へ編入した。その後大学部予科へ進学した際、森鷗外や永井荷風が文学科の教授に就任する文科改革と出会ったことが、万太郎の運命を決定づけることとなった。1914年(大正3年)に慶應義塾大学部文学科を卒業した。

1911年(明治44年)、予科二年のときに小説「朝顔」と戯曲「遊戯」を『三田文学』に発表し、東京朝日新聞の時評で小宮豊隆が絶賛したことで一躍文名を挙げた。同年、雑誌『太陽』に千野菊次郎の筆名で応募した戯曲「プロローグ」が小山内薫の選に入り、劇作家としても注目を集めた。1912年(明治45年/大正元年)には土曜劇場が有楽座で戯曲「暮れがた」を上演し、劇壇での地位を確立した。

1919年(大正8年)より慶應義塾大学の講師として作文を担当するようになり、同年に喜多村緑郎夫妻の媒酌で大場京と結婚した。1926年(大正15年)からは東京中央放送局(後の日本放送協会)嘱託となり、演劇科長兼音楽課長、文芸課長として7年間常勤し、ラジオドラマなどを手がけた。

1937年(昭和12年)、岸田国士、岩田豊雄らと劇団文学座を結成し、新派、新劇、歌舞伎の演出を数多く手がけた。1947年(昭和22年)には帝国芸術院(後の日本芸術院)会員となり、その後第二部(文学)部長を務めた。1951年(昭和26年)には日本演劇協会会長に就任し、文壇・劇壇に重きをなした。1957年(昭和32年)には文化勲章を受章し、同時に文化功労者に選ばれた。

1963年(昭和38年)5月6日夕方、新宿区市谷加賀町の梅原龍三郎邸で設けられた宴席で赤貝のにぎり寿司を喉に詰まらせ、母校でもある慶應義塾大学病院に搬送されたが、午後6時25分に死亡が確認された。73歳であった。弟子たちの証言によれば、美食家であった万太郎は日頃より噛みにくい赤貝は口にしなかったという。死没に際して従三位に叙せられ、勲一等瑞宝章を贈られた。

俳句歴

万太郎は慶應義塾大学在学中、三田俳句会で出会った岡本松浜について俳句を稽古し始めた。松浜がまもなく東京を去ったため、松浜を介して松根東洋城に俳句を師事した。俳号は初め暮雨、後に傘雨を用いた。1916年(大正5年)、市村座に「句楽会」という句会ができると、傘雨と称して俳句を再開した。

1927年(昭和2年)、芥川龍之介が序文を担当して処女句集『道芝』を刊行した。1934年(昭和9年)4月、水原秋桜子や富安風生らによって「いとう句会」が発足すると、その宗匠として招かれ、死の年まで続けた。

1946年(昭和21年)、安住敦らの要望により俳句誌『春燈』を創刊し、主宰として俳壇の一翼を担った。万太郎は終生、自身の俳句を余技として位置づけていたが、その句風に対する世評は高く、歳時記への収録も非常に多い作家である。

万太郎の句風は、江戸情緒の残る下町の暮らしを平明な言葉によって余情深く詠むものであった。芥川龍之介はその句風を「東京の生んだ<嘆かひ>の句」と評し、万太郎自身は自分の句を「家常生活に根ざした叙情的な即興詩」とみなしていた。代表句には「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」「神田川祭の中をながれけり」などがある。

山本健吉は万太郎の俳句について「彼は俳句を余技と言っているが、それは彼の俳句が年季のはいった立派なものであるということと矛盾するものではない。ただ専門俳人との間に創作態度の違いが存在するのであって、彼にとっての俳句は全面的な人間表現の場所でもないし、絶体絶命の一筋の道ではないということだ。言わば彼の不断着の文学であり、チェホフの『手帖』やルナールの『日記』に類する役割を彼においては果たしているのだ」と評している。また万太郎は挨拶句の名手としても知られ、山本健吉は高浜虚子と双璧をなすと評価した。

その他の特記事項

万太郎の小説・戯曲の多くは浅草を舞台とし、江戸の情緒を盛り込んだ情話で知られる。小説では『末枯』(1917年)、『春泥』(1928年)、『花冷え』(1938年)、『三の酉』(1956年)などが代表作である。劇作家としては、泉鏡花「歌行燈」、谷崎潤一郎「春琴抄」など、名作の劇化も数多く手がけた。

万太郎は生涯にわたって樋口一葉の研究に没頭し、1928年に新潮社の日本文学講座にて「樋口一葉とその大音寺時代」を執筆して以来、一葉研究の第一人者となった。また1952年に永井荷風が文化勲章を受章した際、選考委員会で荷風を強く推薦したのは万太郎であった。

1945年(昭和20年)5月の空襲で被災し、家財・蔵書のほとんどすべてを失うという経験をした。一人息子や長年同居していた事実上の妻に先立たれ、本妻との関係は破綻していたことから、自身の作品の著作権も含め一切を母校慶應義塾大学へ譲渡している。慶應義塾では現在も「久保田万太郎記念講座」があり、内外の著名人を招いている。

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参考にさせていただいたWebサイト様
久保田万太郎 -- Wikipedia 久保田万太郎|近代日本人の肖像 -- 国立国会図書館 久保田万太郎の忌日 -- 雑学ネタ帳

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
別名千野菊次郎
別号暮雨 傘雨
生没1889 〜 1963

基準
向き
件数

現在、90句の俳句が登録されています。

    • 柳 やなぎ
      季節: 春(晩春) 分類: 植物(キントラノオ目)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 春
      p.173