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俳人の説明

管理人による説明

明治から平成にかけて活躍した俳人。禅的思想に基づく独自の俳句理念を追求し、孤高の俳人として知られた。

生涯

永田耕衣は1900年2月21日、兵庫県加古郡尾上村今福(現・加古川市尾上町今福)に生まれた。本名は軍二である。別号に田荷軒主人がある。父は農業兼村役場吏員であった。6歳のとき母の妹永田てい子の養子となり、父母と同居したまま名義のみ母系永田姓を継いだ。

尾上村立尾上尋常高等小学校尋常科・高等科を経て、1917年、兵庫県立工業学校(現・兵庫県立兵庫工業高等学校)機械科を卒業した。在学中から文芸を好み、工業高校では同級生と回覧誌を作った。新派悲劇や映画にも親しんだ。卒業後、三菱製紙高砂工場に技手補として就職し、以後15年間夜勤についた。また社内クラブの謡曲部に入り、観世流謡曲と都山流尺八を習った。

1919年、作業中に抄紙機に右手を巻きこまれ、三指の自由を半ば失った。このため後に兵役免除となった。治療を兼ねて郷里に滞在中、泉福寺で行われた師家雲水の禅問答を聞き、このことを契機に禅に興味を抱くようになった。

1920年、赤坂ユキヱと結婚し、のち一男一女をもうけた。高砂市荒井町で社宅に入居した。1952年には三菱製紙高砂工場製造部長となり、1955年に定年退職した。退職後、神戸市須磨区に転居した。

1995年、阪神・淡路大震災によって自宅「田荷軒」が全壊し、2階のトイレに閉じ込められた。救出されて半月後、大阪府寝屋川市の特別養護老人ホームへ移り、車椅子が必要になった。1996年、朝食に向かう途中、転んで左上腕骨を折ったのを機に書けなくなり、創作がぴたりと止んだ。しかし秋のある日、弟子の金子晉に手控えた一句を突然示した。その一句「枯草の大孤独居士此処に居る」が絶筆となった。

1997年、1・2月号をもって「琴座」幕引きを宣言し終刊した。同年8月25日、肺炎にて死去、97歳であった。兵庫県加古川市尾上町今福・泉福寺に埋葬される。戒名は生前に自ら付けた「田荷軒夢葱耕衣居士」であった。

俳句歴

1920年ごろから毎日新聞兵庫版付録の俳句欄(岩木躑躅選)に投句をはじめ、1922年から大阪の俳誌「山茶花」、岩木躑躅主宰の「いひほ」に投句した。1925年、社内劇団の座員となりしばしば舞台に立った。1927年、岩木躑躅を選者に迎えて、相生垣秋津、宮富岳坊とともに「桃源」創刊したが、6号で休刊した。このころ武者小路実篤に心酔し、新しき村の機関誌に短編小説や自由詩などを寄稿した。1929年、「山茶花」に飽き、原石鼎主宰の「鹿火屋」、小野蕪子主宰の「鶏頭陣」などにさかんに投句した。小野蕪子から骨董趣味の影響を受けた。

1935年、工場内で俳句に関心のありそうな仲間に声をかけ、「蓑虫」を創刊、主宰した。同好者四十余名を育成し、「鶏頭陣」に優秀な作者を送り込んだが、16号で休刊した。

1937年、「鶏頭陣」の投句仲間や相生垣秋津、工楽長三郎、糟谷武美と文化趣味の会「白泥会」を結成した。柳宗悦指導の民芸運動の諸作家棟方志功、河井寛次郎、濱田庄司、寿岳文章、竹中郁、阿部知二らに接した。工楽邸に棟方志功が投宿した折は個人的に訪問して芸術論を交わし、その生命力溢れる作品思想がのち創作の支えとなった。

1938年、俳誌「柿串」に新設された「阿吽抄」欄の選者となった。1940年、新風を求めて石田波郷主宰の「鶴」に入会し、三ヶ月で巻頭となり、後に同人に推された。官憲による思想弾圧の時勢下で小野蕪子の忠告を受け、諸俳誌への多様な活動を慎むようになった。

1941年、社内の青年学校の教師となり、1945年8月まで務めた。思想弾圧の危険を考慮し、一時句作を中断するが、「祖牛」の筆名でひそかに「鶴」に投句を再開した。1943年、太平洋戦争の激化により、発起して社内に座禅会を結成し、毎月、宮崎奕保和尚の鉗鎚を受けた。

1946年、社内短歌誌「れいめい」が刊行され、休刊までの約一年間に短歌五十七首を発表した。俳誌「風」にさかんに投句した。1947年、現代俳句協会設立に伴い会員となった。この年、西東三鬼、平畑静塔、波止影夫らの発案で大阪に「近畿俳句会」が設立され、月1回集会に参加し、橋本多佳子、下村槐太、桂信子、火渡周平、赤尾兜子など多くの俳人を知った。同年、東播地方(加古川市・高砂市)の俳句愛好家を中心とするガリ版の俳誌「飛鳥」を創刊、指導した。

1948年、三鬼の推輓により山口誓子の「天狼」同人となった。「天狼俳句会」の規約(他結社との重籍を認めず)により、「鶴」「風」同人を辞し、「飛鳥」を解消した。1949年、プリント俳誌「琴座(りらざ)」を社内会報として創刊・主宰した。

1953年、「天狼」を脱退し、「鶴」同人に復帰した。1955年の定年退職後、毎日新聞兵庫県版の選者、神戸新聞俳句選者などを努めた。1959年、「俳句評論」創刊とともに同人となった。

1974年神戸市文化賞、1981年神戸新聞社「平和賞」、1985年兵庫県文化賞、1990年第2回現代俳句協会大賞、1991年第6回詩歌文学館賞を受賞した。

その他の特記事項

耕衣は「天狼」時代には同誌の主張であった「根源俳句」を追求した。根源俳句とは、山本健吉によれば「存在の根源(生命の根源)を追及する『根源精神』によって貫かれた句」である。耕衣自身は「根源」を「東洋的無」と規定した。のちにさらに禅的な諧謔性を要点に据え、「季語霊」や「定型楽守」、「超時代性」といった独自の俳句理念を発展させた。

耕衣は俳句創作のみならず、書画にも個性を発揮し、90歳を超えた最晩年に至るまで旺盛な創作活動を行った。棟方志功、河井寛次郎、須田克太らと交遊があった。

耕衣の母思いは有名で、1950年に90歳で亡くなるまでの20年間、訪問のたびに自ら按摩を行った。

句集に「加古」「驢鳴集」「吹毛集」「與奪鈔」「悪霊」「闌位」「冷位」「殺佛」「殺祖」「物質」「葱室」「人生」「泥ん」「狂機」「自人」などがあり、著書に「山林的人間」「二句勘辨」「鬼貫のすすき」「耕衣自伝」などがある。

城山三郎の小説『部長の大晩年』で晩年の耕衣の姿が描き出されている。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
永田耕衣 -- Wikipedia 永田 耕衣 -- 兵庫ゆかりの作家(ネットミュージアム兵庫文学館) 根源俳句・永田耕衣 -- 禅と詩歌

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名軍二(ぐんじ)
別号田荷軒主人
生没1900 〜 1997
出身地兵庫県加古川市尾上町今福
出身地(旧地名)兵庫県加古郡尾上村今福

現在、19句の俳句が登録されています。

    • 春 はる
      季節: 春(三春) 分類: 時候(暦)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 春
      p.18
    • 梅 うめ
      季節: 春(初春) 分類: 植物(バラ目)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 春
      p.151