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俳人の説明

管理人による説明

江戸後期を代表する俳人。寛政三大家・江戸四大家の一人。

生涯

夏目成美は、寛延2年1月10日(1749年2月26日)に江戸浅草瓦町(現在の台東区浅草橋)において、蔵前札差五代目井筒屋八郎右衛門宗成の五男として誕生した。幼名は泉太郎、諱は包嘉である。成美の兄4人はいずれも夭逝しており、父が高齢での誕生であった。生後3、4歳まで、寛延元年に夫を喪った伯母のもとに預けられ、宝暦元年(1751年)に夏目家に引き取られた。幼少時には市河寛斎に句読を学んだ。

明和元年(1764年)6月1日に家督を継ぎ、六代目井筒屋八郎右衛門となる。翌年には父宗成が剃髪して今戸に隠棲した。明和3年(1766年)秋には右足に痛風を患い、生涯にわたってこの病に苦しむこととなる。天明2年(1782年)には病気のため家督を弟庄兵衛に譲ったが、翌天明3年に庄兵衛が死去したため復職することとなった。

寛政2年(1790年)8月初旬、本所多田森(現在の墨田区東駒形)に別宅宝法林庵を構え、寛政7年(1795年)には痛風が悪化したため家督を子に譲り、贅亭に隠居した。文化11年(1814年)夏には子息に請われて浅草瓦町の本宅近くに移住したが、翌年10月5日夜より中風の病を患った。文化13年(1816年)春から夏にかけて小康があったものの、9月中旬に喘息の発作が起こり、11月19日暁に死去した。享年68であり、父と同じ年齢であった。法号は等覚院成美日済居士、墓所は下谷車坂町蓮華寺(現在は豊島区駒込に移転)である。

俳句歴

成美の俳句歴は、宝暦13年(1763年)に松庵編『猪武者』に八郎治として入句したことに始まる。その句は「うぐひすの八人芸や谷わたり」であった。成美は特定の流派には属さず、自ら「俳諧独行の旅人」と称した。蔵前の札差という本業があり、金銭に不自由することがなかったため、俳諧においては点料に手を染めることもなく、太鼓持ちと揶揄されることもない稀有な立場にあった。

その俳風は文人らしい風雅感と繊細さを特徴とし、様々な書籍の序跋を認め、古い俳書にも通じていた。成美は極めて筆まめであり、天理大学附属天理図書館には安永8年(1779年)から寛政12年(1800年)までの句日記が残されている。これらの句日記には『杉はしら』『いかに/\』『あかつき』『手ならひ』『一陽集』『谷風草』『厚薄集』『随斎句藻』『随斎句藁』『はらはら傘』などがあり、これらから秀句が『成美家集』『続成美家集』に集められ、没年の文化13年に『成美家集』が出版された。

岩間乙二、鈴木道彦と共に寛政三大家、また大島完来、鈴木道彦、建部巣兆と共に江戸四大家と称される大御所であった。成美の句作に関する姿勢として、「句を作るに至りて、強いて雅を求むべからず。つとめて俗を去るにあり」という言葉が残されている。

その他の特記事項

成美は寛政10年(1798年)に江戸に出て本所相生町五丁目裏長屋に住んでいた小林一茶の朝食を賄う一方、留守番や仏画の手入れを手伝わせるなど、一茶のパトロンとして知られる。一茶との交友は深く、当時は成美のほうが圧倒的に人気があったとされる。また大伴大江丸や建部巣兆との交友でも知られ、篤実温厚な性格であったという。

成美の著書には句日記のほか、『七部集纂考』『随斎諧話』『四山藁』『糂汰瓶』『浅草はうご』『一夜流行』『浅草』などがある。近代には『俳家成美全集』(明治33年)、『夏目成美全集』(昭和58年)が出版された。

井筒屋夏目家はその後衰退し、明治19年(1886年)に断絶した。成美の別号は八郎治、修行庵、随斎、不随斎、法林庵、贅亭、無辺法界排士、卍齢坊、大必山人、四三山道人、風雲社など多数にわたる。

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参考にさせていただいたWebサイト様
『初秋(はつあき) 夏目成美』 -- Ameba 夏目成美 -- Wikipedia 夏目成美 -- インターネット俳句

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
幼名泉太郎
諱包嘉
別号八郎治 修行庵 随斎 不随斎 法林庵 贅亭 無辺法界排士 卍齢坊 大必山人 四三山道人 風雲社
生没1749 〜 1817

基準
向き
件数

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