優れた俳句をデジタルデータとして保存し、後世に残すために俳句データベースを開発しています。

俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和初期にかけて活躍した俳人。高浜虚子に師事し、俳誌「枯野」を創刊主宰して立体俳句論を唱導した。

生涯

長谷川零余子(はせがわ れいよし)は明治19年(1886年)8月20日、群馬県緑野郡鬼石町(現・藤岡市)に生まれた。本名は長谷川諧三(はせがわ かいぞう)、旧姓は富田である。16歳から俳句を始め、明治36年(1903年)に上京して東京神田の大学館という書店に勤めながら苦学した。井上唖唖、永井荷風、伊藤竹酔等の七草会に加わって俳句に熱中し、初めて零余子と号するようになった。

零余子は物理学校や正則英語学校に学び、検定試験に合格して薬学専門学校に入学した。正則英語学校時代の家庭教師先であった長谷川家の援助を得て、明治45年(1912年)に東京帝国大学薬学専科を卒業した。明治44年(1911年)には長谷川家の長女かな(俳人長谷川かな女)と結婚し、長谷川家の養子となった。卒業後は品川の薬品研究所の研究員となったが、高浜虚子より「二兎を追うものは一兎を得ず」の意味を教えられ、俳句の道に生きることを決心した。

昭和3年(1928年)7月27日、山陰地方への旅行から帰京後に発熱し、腸チフスにより東京府東京市淀橋区柏木(現・東京都新宿区)の自宅において42歳で死去した。墓所は杉並区福相寺である。

俳句歴

零余子は明治38年(1905年)に新聞「日本」「万朝報」に投句し、「日本」の選者河東碧梧桐の知遇を得た。明治39年(1906年)にはホトトギス例会に出席するようになり、明治42年(1909年)には「国民新聞」俳壇で入選した。大正元年(1912年)、高浜虚子に請われてホトトギス編集部に入り、大正2年(1913年)には「ホトトギス」の「地方俳句界」の選者となった。大正3年(1914年)には「東京日日新聞」(現・毎日新聞)の選者にも就任した。

大正10年(1921年)、俳誌「枯野」を創刊し主宰した。零余子は「俳句は自然観照の文学である」と標榜し、大正15年(1926年)には講演概要筆記「立体俳句論」を「枯野」に掲載した。「物の分子はみな立体で成り立っているので、これを概念的に見てはいけない。人間の眼は不完全で物は立体に見えない。それ故、物を心眼で見なければならぬ」と説き、単なる客観写生を斥けて多数の誌友を集めた。その幾何学的な俳風は知識人層の支持を得て、「枯野」はホトトギスに対抗する有力な俳誌となった。

零余子は大正9年(1920年)に三井物産の斡旋で「小樽新聞」の俳壇選者となり、北海道にも大きな影響力を与えた。大正11年(1922年)以降、北海道に複数回来道し、旭川、札幌、小樽、函館など各地を巡って俳句普及に努めた。

その他の特記事項

零余子の著書には句集「雑草」(1924年)、句集「零余子句集第二」(1932年)のほか、「俳句とその作り方」(1919年)、「新らしき俳句の作り方」(1926年)、「近代俳句史論」(1921年)などがある。また編著として「校注解釈蕪村俳句全集」(1922年)、「季題別年代別芭蕉俳句全集」(1925年)などを残した。

零余子の死後、妻のかな女は昭和3年(1928年)10月に「枯野」を「ぬかご」と改題して俳誌を発刊し、昭和4年(1929年)11月には俳誌「水明」を創刊主宰して、「枯野」の系譜を受継いだ。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
長谷川零余子 -- Wikipedia 長谷川かな女・長谷川零余子 -- 俳人墓標 続 石碑が語る上富の歴史その(四)-- 郷土をさぐる会

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名諧三(かいぞう)
生没1886 〜 1928

現在、16句の俳句が登録されています。