優れた俳句をデジタルデータとして保存し、後世に残すために俳句データベースを開発しています。

俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和にかけて活躍した俳人。水原秋桜子に師事し、「生きる証としての俳句」を提唱。「南風」を創刊・主宰した。

生涯

山口草堂(やまぐち・そうどう)は、明治31年(1898年)7月27日、大阪市北区堂島の裕福な商家に生まれた。本名は山口太一郎。旧制今宮中学校を卒業後、大正6年(1917年)に早稲田大学文学部独文科に進学した。しかし大正10年(1921年)、結核を患い大学を中退、約7年間に及ぶ長い療養生活に入った。

療養中は多くの書物を読み、詩や小説の創作を試みた。「新早稲田文学」の同人として活動し、石塚友二、中山義秀、石川達三といった気鋭の作家たちと交流した。また海外の詩にも目を向け、リルケやヘルダーリンといった詩人の訳詩を「新進詩人」に発表するなど、幅広い文学活動を行っていた。

晩年は舌癌や白内障といった大患を克服し、傘寿に達した。昭和60年(1985年)3月3日、心不全により逝去。86歳であった。

俳句歴

俳句の世界に入ったのは、療養生活も落ち着き始めた昭和4年(1929年)頃、従弟の勧めがきっかけであった。文学仲間とともに句会をつくり「山茶花」に投句を始め、昭和6年(1931年)、水原秋桜子が創刊した「馬酔木」に入門し、秋桜子を生涯の師と仰いだ。同年、大阪馬酔木会を興した。

昭和9年(1934年)、馬酔木賞を受賞。翌昭和10年(1935年)には「馬酔木」同人に推挙されるという異例の早さで俳壇での地位を確立した。同年、大阪馬酔木会会報を前身として俳誌「南風」を創刊し、主宰となった。「南風」は関西を拠点とした有力な俳句結社へと発展していった。

句風について、飯田龍太は「肉体の羸弱を超えてはればれした境をひらく」と評し、沢木欣一は「こまやかで明るくうるおいに富んでいる」「沁み入るような自然観照、『細み』ともいうべき甘美さ」と評した。野澤節子は「清冽にして眼光鋭く、しかも、どこかに爽やかな風が吹く」と評し、その詩精神のゆるみない気凛を讃えた。

昭和43年(1968年)、句集『行路抄』の跋文に「俳句はわたくしにとって『生きる証し』となった」と記し、「生きる証としての俳句」の提唱者となった。これは長年の病と向き合い、生の実感を強く意識せざるを得なかった経験から生まれた哲学であった。

昭和52年(1977年)、句集『四季蕭嘯』で第11回蛇笏賞を受賞。受賞の言葉で「今までの受賞者は大結社の立派な先生方ばかりだから、わたくし如きが受賞するなんて間違つてもあり得ないと気にもしなかつたが、そのあり得ないことが起つたのだから、驚きを通り越してぼんやりしてしまつた」と述べている。昭和54年(1979年)には大阪市民文化功労賞を受賞した。

昭和59年(1984年)、「南風」主宰を鷲谷七菜子に譲り、同名誉主宰に就任した。

句集に『歸去來』『行路抄』『四季蕭嘯』『白望』などがあり、随筆集に『春日丘雑記』がある。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
山口草堂(やまぐちそうどう) -- 野島春樹の沈思黙考 山口草堂 -- Wikipedia 『四季蕭嘯』(牧羊社刊)|第11回(1977年)|顕彰事業 -- 公益財団法人 角川文化振興財団

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名太一郎
生没1898 〜 1985
出身地大阪府

現在、16句の俳句が登録されています。