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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代後期の俳人・医師。加藤暁台に師事し、暁台没後は名古屋俳壇を主導。夏目成美・鈴木道彦とともに寛政三大家と称された。

生涯

井上士朗(いのうえ・しろう)は、寛保2年(1742年)3月10日、尾張国守山村(愛知県名古屋市守山区)に生まれた。名は正春。叔父で名古屋新町の医師・井上安清の養子となり、井上家3代目を継いだ。医業においては専庵と号し、宝暦7年(1757年)2月に医師として独立した。後に京都に上り、吉益東洞に医術を学び、賀川玄悦に産科を学んだ。穏和な性格で、藩の重鎮から町人まで分け隔てなく治療し、名声を博して門前市をなす賑わいを見せた。号の専庵から、住居の辺りは専庵横町と呼ばれるほどであったという。

安永6年(1777年)12月、尾張藩主御目見となる。天明4年(1784年)4月より尾張藩御用懸を務めた。享和元年(1801年)2月より二之丸御次療治を務めたが、享和3年(1803年)4月、中風のため藩医を引退した。文化4年(1807年)冬、医業を息子に譲って隠居し、松翁と号した。

妻の貞庵は寛政6年(1794年)に没した。文化9年(1812年)5月16日、71歳にて没。名古屋禅寺町の照運寺に葬られた。墓碑銘は「松翁先生之墓」。墓碑は名古屋大空襲で被災し、平和公園に再建された。

俳句歴

俳号は初号を支朗(のち士朗)とし、住まいに因み枇杷園(びわえん)、朱樹叟(しゅじゅそう)、隠居後は松翁(しょうおう)を名乗った。宝暦13年(1763年)、三河国矢作で橋守園連中の『蛙啼集』に初入選。明和2年から3年(1765年〜1766年)頃、水野万岱の勧めで加藤暁台に入門した。安永3年(1774年)4月には伊藤都貢とともに京都に上り、与謝蕪村と交流している。

また俳諧以外にも、国学を本居宣長に、絵画を勝野茫古に、平曲を荻野検校に学ぶなど、趣味人ぶりを発揮していた。寛政元年(1789年)3月、本居宣長が名古屋を訪れた際には門人録に署名している。

寛政2年(1790年)、暁台に後継を打診されたが、本業の医業があったため辞退した。寛政4年(1792年)に暁台が京都で死去すると、以降、士朗は尾張俳壇の指導者的立場を強めていった。一門を同門俳友の臥央に譲り独立し、自身の住まいに因んだ号を名乗った。

句風は平明な写実を特徴とし、従来に比してやや軽いという評もあったが、町人文化が台頭してきた時代に喝采を浴びて受け入れられた。俳諧連歌(連句)においては俳句に勝る高い評価を得た。門人は東は奥州から西は九州まで全国に及び、夏目成美・鈴木道彦とともに「寛政三大家」と称された。

寛政期の名古屋は「俳関」と呼ばれ、各地を行脚する俳人が必ず立ち寄る所とされた。「尾張名古屋は士朗(シロ)でもつ」という俗謡が生まれるほどの名声を博し、一目置かれた俳都であった。

句集に『枇杷園句集』『枇杷園句集後編』、随筆に『枇杷園随筆』があり、『枇杷園七部集』『士朗七部集』『士朗続七部集』などに作品が収められている。

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参考にさせていただいたWebサイト様
井上士朗 -- Wikipedia 井上士朗 -- 掃苔録 輩出人/医師 井上士朗 -- 守山の歴史

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
別号専庵
生没1742 〜 1812

現在、13句の俳句が登録されています。

    • 葉柳 はやなぎ
      季節: 夏(三夏) 分類: 植物(キントラノオ目)
    • 虚子編 新歳時記 増訂版
      p.351
    • 柿落葉 かきおちば
      季節: 冬(初冬) 分類: 植物(ツツジ目)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 冬
      p.203