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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前期から中期にかけて活躍した俳人。松尾芭蕉と同郷の後輩で、蕉門十哲の1人に加えられることもある。芭蕉晩年の俳論を整理した『三冊子』などの著書を残し、今日の芭蕉研究の基礎を作った。伊賀蕉門の中心として生涯を蕉風俳諧の普及に尽力した。

生涯

服部土芳(はっとり とほう)は、明暦3年(1657年)、伊賀上野に生まれた。米問屋木津孫次郎保何の五男として生まれた後、藤堂藩士服部半左衛門の養嗣子となった。本姓は木津。本名は保英、通称は半左衛門。号は芦馬・蓑虫庵・些中庵。初号は蘆馬(芦馬)。

幼いころに芭蕉に俳諧を学んだ。寛文5年(1665年)、9歳のとき芭蕉から俳諧の手ほどきを受けたという。伊賀藤堂藩に仕えた。

貞享2年(1685年)、水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会し、再び俳諧に関心を抱いた。30歳で藤堂藩を致仕し、貞享5年(1688年)に訪れた芭蕉の「みのむしの音を聞にこよ草の庵」の句から蓑虫庵と呼ばれる庵を開いた。芭蕉から贈られた面壁達磨画賛にちなんで蓑虫庵(のちに些中庵とも)と名づけた。俳号も芦馬から土芳に改めた。蓑虫庵に住して俳諧に専念し、土芳を中心に伊賀蕉門は大きく発展した。伊賀蕉門の中心人物として活躍した。

享保15年(1730年)1月18日に死去した。74歳であった。

俳句歴

編著書として、芭蕉の俳論を伝える『三冊子』、芭蕉の生涯全作品を集大成した『蕉翁句集』『蕉翁文集』を完成させた。この他、『横日記』(元禄~享保)、『庵日記』(1688~99年)、『蓑虫庵集』(1729年)などの日記を残し、当時の俳諧についての価値の高い資料を残した。

生涯を蕉風俳諧の普及に尽力し、今日の芭蕉研究の基礎を作ったことが評価されている。

土芳の句には「棹鹿のかさなり臥る枯野かな」などが『猿蓑』に所収されている。

墓所は伊賀市西蓮寺(伊賀市指定史跡)。長らく所在不明とされていたが、昭和35年(1960年)に郷土史家の山本茂貴によって自然石に「些中庵浄山土芳」と彫った墓石が発見された。昭和38年(1963年)4月1日に市指定史跡となった。

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参考にさせていただいたWebサイト様
服部土芳墓所 -- 伊賀市デジタルミュージアム 服部土芳 -- Wikipedia 服部土芳(ハットリトホウ)とは? 意味や使い方 -- コトバンク

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名保英
別姓土芳(どほう)
別号蘆馬 芦馬
通称半左衛門
生没1657 〜 1730

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