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俳人の説明

管理人による説明

大正期の俳人。2歳で両足が麻痺し生涯歩行不能となったが、四重苦に耐えて句作に励み、「大正俳壇の啄木」と称された。関東大震災で26歳の若さで焼死した。

生涯

富田木歩は、1897(明治30)年4月14日、東京市本所区新小梅町(現在の東京都墨田区向島一丁目)の鰻屋に生まれた。本名は一(はじめ)である。誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し、生涯歩行不能となった。俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に由来する。最初の俳号は吟波であった。

富田家は向島小梅村近辺の大百姓であったが、父丑之助が財産を使い尽くし、1889(明治22)年の大火で本家も資産の大方が灰に帰した。1897(明治30)年頃には小梅町の一角で鰻屋「大和田」を営む貧しい暮らしであった。木歩は身体障害と貧しさのために小学校にも通えず、無就学児童となった。「いろはがるた」や「軍人めんこ」で文字を覚え、頭脳明晰な木歩少年は早くも巌谷小波のお伽噺や「少年世界」を読めるようになった。

1907(明治40)年8月の隅田川決壊の大洪水で店は大きな被害を受け、二人の姉は遊郭へと売られた。さらに1910(明治43)年8月にも大洪水があり、富田家はいよいよ貧困に陥った。1912(大正元)年には父親も世を去った。1913(大正2)年、16歳の木歩は友禅型彫師の店へ徒弟奉公に出されたが、陰湿ないじめに耐えられず半年で家に戻った。

木歩は自ら松葉杖と義足を作ったが、細く萎えた下肢には身体を支える力はなく、ただの一歩すら進むことができなかった。木歩の歩く夢は儚く潰えた。1913(大正2)年頃、少年雑誌の中にあった巌谷小波の俳句のページに惹かれ、吟波の俳号で俳句の試作を始めた。

1915(大正4)年、木歩は臼田亞浪に師事し、「石楠」に投句した。歩けない自分のままで生きるしかないという覚悟が、揺るぎなく坐ってきた。その年、長姉富子と次姉久子と兄金太郎が金を出し合い、本所仲之郷曳舟通りの棟割長屋を借りてくれた。1916(大正5)年、駄菓子屋の入口に「小梅吟社」の看板を掲げ、近所の若い職工などが集まるようになった。

1917(大正6)年、同じ「石楠」の同い年の俳人で慶應義塾大学生の新井声風を知り、生涯の友となった。声風は頻繁に木歩の長屋にやって来て、新刊の俳句雑誌や総合雑誌を持参した。この年の真夏、弟子の土手波王が溺死し、末妹静子と隣の娘小鈴も芸妓屋に身を売り、妹まき子も半玉となった。さらに弟利助が結核で寝付いた。9月、声風は個人誌「茜」を同人誌とし、木歩を同人に迎えた。この頃から俳号を吟波から木歩にした。

1918(大正7)年2月、利助が逝き、7月には妹まき子も結核のため逝った。12月、木歩は喀血を繰り返し病臥した。1919(大正8)年1月、重症を脱した。母み禰が脳卒中で倒れ、3月に長姉富子が囲われている向島須崎町弘福寺境内の家に移った。12月末、長姉の家が向島寺島町玉の井に転居し、木歩と母も同行した。

俳句歴

木歩は1914(大正3年)「ホトトギス」8月号の「俳句の作りやう」欄に吟波の名で初入選した。原石鼎が再三指導に来てくれたが、後に「ホトトギス」から離れた。1915(大正4)年、臼田亞浪に師事し、「石楠」に投句した。臼田亞浪の真実を重んじる句風や生き方に共鳴し、現実の中で現実を詠んでいく姿勢を貫いた。

1918(大正7)年、声風は「茜」1月号を「木歩句鈔」の特集号として出した。臼田亞浪、黒田忠次郎らが「境涯の詩人」と賞賛し、歌人西村陽吉は「俳壇における石川啄木」であり「生活派」の俳人と評した。秋には「石楠」の同人に推薦された。

1920(大正9)年、渡辺水巴の好意で「曲水」に「木歩句集」が7月から4回に亘って連載された。木歩の元には各地の俳誌から次々と句や文章の依頼が来るようになり、木歩の名前、人となりと作品は一気に俳壇に知られることとなった。1921(大正10)年夏、木歩は貸本屋「平和堂」を開業した。1922(大正11)年、声風の「石楠」脱退半年後、木歩も「石楠」退会届を提出した。浅井意外の「山鳩」、長谷川春草の「俳諧雑誌」、楠部南崖の「初蝉」などが木歩の句や文章を掲載した。木歩は随筆・研究・論文を多数発表し、新進の俳人として全国的に知られるようになった。

1923(大正12)年1月、長姉富子の旦那白井が須崎に一軒屋を借り、「平和堂」を続けられるように改築してくれた。木歩は「草味吟社」のグループ名で「草味十句集」を毎月編集し、結社の枠を超越した広く自由な研究機関を実現させた。声風は中断していた「茜」を華々しく再出発させる期待を抱いていた。

1923(大正12)年9月1日、午前11時58分、関東大震災が起こった。須崎町の木歩の家を訪ねた新井声風は、避難していた木歩を背負って逃げたが、源森川の川口近くで三方を火の海に囲まれた。声風は木歩に「もう此処まで来ては、どうにもなりません」と告げ、木歩は黙ったまま声風の手を握り返した。声風は隅田川に身を躍らせ、数時間後に対岸に辿り着いたが、木歩は焼死した。26歳の生涯であった。

その他の特記事項

木歩の句は簡潔で、貧困、肺結核、無学歴という四重苦に耐えながら生み出された。山本健吉は「20才代にして、このような特異な完成した境地を打ちたてた作家は、後に芝不器男が現れるまでは誰もいない」と評した。

新井声風は木歩の死後、その俳句や文章など全ての作品を書籍として残すことに努めた。1934(昭和9)年に『木歩句集』と『木歩文集』、1935(昭和10)年に『富田木歩全集』、1938(昭和13)年に『定本木歩句集』、1964(昭和39)年に『決定版富田木歩全集』を世に出した。

墨田区向島2丁目の三囲神社境内には、震災一周年に全国の俳人有志60人の浄財によって建てられた句碑があり、臼田亞浪の書で句が刻まれている。1989(平成元)年3月には、終焉の地である枕橋近くに墨田区によって句碑が建立された。毎年、命日の9月1日前後の日曜日に、最勝寺で追善法要並びに追悼句会が催されている。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
富田木歩 -- Wikipedia 第百五十六夜 富田木歩の冬木風の句 -- miho.opera-noel.net 富田木歩(すみだゆかりの人物を紹介します)-- 墨田区立図書館

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名一(はじめ)
別号吟波
生没1897 〜 1923

現在、19句の俳句が登録されています。