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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代の俳人。松尾芭蕉門に入ったが、俳風の違いから蕉風を批判し、後に袖を分かった。古典に憧れた素朴な古風を特徴とする。

生涯と俳句歴

山本荷兮は、慶安元年(1648)、名古屋城東清水に生まれた。本名は山本周知、通称は武右衛門、太一(太市)。号は加慶、一柳軒、橿木堂、撫贅庵。尾張藩士であるが、医業を生業にしていたと伝えられる。

荷兮の句の初出は、貞門派の椋梨一雪『晴小袖』である。延宝5年(1677)、談林派の樋口兼頼『熱田宮雀』が刊行された。貞享元年(1684)に『野ざらし紀行』の旅の松尾芭蕉を迎え、芭蕉門に入る。貞享元年以来、尾張名古屋の蕉門の重鎮として活動し、その後『冬の日』五歌仙興行、『春の日』、『阿羅野』を編纂した。『阿羅野』には芭蕉が序を寄せている。また、『更科紀行』では奴僕を提供して芭蕉一行の旅の安全を支援するなどした。貞享4年(1687)頃、剃髪した。

当初は芭蕉と親しかったが、俳風の違いから徐々に反感を抱くようになった。荷兮は結局保守派で、芭蕉が次々と唱導する俳諧革新、特に「軽み」にはついていくことができなかった。元禄6年(1693)『曠野後集』を出版し、その序文に幽斎・宗因など貞門俳諧を賞賛し、「ただいにしへこそこひしたはれる」とまで書いて反抗した。そのため、蕉門の去来など理論派からは大いに非難された。翌年『ひるねの種』を出版して蕉風を批判した。その後も芭蕉批判は止まず、芭蕉没後の元禄10年(1697)『橋守』で芭蕉の句を批判している。だが、荷兮自身の句作も低調で、元禄12年(1699)『青葛葉』を刊行して以降は、連歌師に転向した。晩年は連歌師として昌達と号し、法叔に叙せられる。

享保元年(1716)8月25日、69歳で没した。名古屋小川町法華寺に葬られる。法名は信綆院汲清日玄。

その他の特記事項

荷兮の句風は、『曠野後集』の自序に「たゞいにしへをこそこひしたはるれ」と語るように、古典に憧れた素朴な古風を喜び、茶人的な趣味な世界に遊ぶことを特徴とする。この古風を賞揚する姿勢が、常に新調を求める芭蕉とのすれ違いを生み、後の反目に繋がった。「古風を守って、新風を擢くでもなく、古風を捨てゝ、新風に徹するでもなく、依違逡巡の態度」とも評される。代表句「こがらしに二日の月のふきちるか」から「凩の荷兮」と賞された。

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参考にさせていただいたWebサイト様
山本荷兮 -- Wikipedia 山本荷兮(蕉門) 句碑 -- 伊豆文学 山本荷兮 Who'sWho -- 山梨県立大学

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名周知
別号加慶 一柳軒 橿木堂 撫贅庵
通称武右衛門 太一 太市
生没1648 〜 1716

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