優れた俳句をデジタルデータとして保存し、後世に残すために俳句データベースを開発しています。

俳人の説明

管理人による説明

大正時代に活躍した新聞記者・俳人。結核を患いながら高浜虚子に師事し、若くして没したが、師から「佳作の多い一家の集」と称賛された。

生涯と俳句歴

宮部寸七翁は、明治20年(1887)1月12日、熊本県下益城郡丹生宮村(現・熊本市南区城南町丹生宮)に生まれた。本名は逸夫、号に峻峰を用いた。熊本農業学校、早稲田大学政治経済学部を卒業後、九州新聞(現・熊本日日新聞)に入社し、記者として活躍した。しかし、同社のストライキ事件に巻き込まれて退社することとなった。その後、九州立憲新聞を経営し、博多毎日新聞の編集長となるなど、ジャーナリストとして活動を続けた。

大正5年(1916)に結核を発病したが、この頃より俳句を始め、『ホトトギス』などに投句するようになった。高浜虚子に師事し、熊本出身の女流俳人・斉藤破魔子(のちの中村汀女)に句作指導を行った。俳句を始めてから約10年という短い句業ではあったが、大正13年頃には寸七翁を中心に熊本で俳誌を創刊する動きがあった。

大正15年(1926)1月30日、39歳(または40歳)で没した。「血を吐けば現も夢も冴え返る」の句を辞世として残し生涯を閉じた。没後の昭和4年(1929)、吉岡禅寺洞により「寸七翁句集」が編纂された。師匠である高浜虚子は序文に「かくの如く佳作の多い一家の集は、きわめて稀に見るところである」と称賛し、弟子の死を惜しんで追悼の一句「寒梅にホ句の佛の上座たり」を贈った。寸七翁没後の昭和4年、弟子たちの手により俳誌「阿蘇」が創刊され、その詩魂は受け継がれていった。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
宮部寸七翁 -- Wikipedia 第二百二十五夜 宮部寸七翁の「むかご」の句 -- miho.opera-noel.net 四季の風 第10回 野の墓 -- あれんじ

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
生没1887 〜 1926

現在、6句の俳句が登録されています。

    • 皸 あかぎれ
      季節: 冬(晩冬) 分類: 人事(健康)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 冬
      p.133