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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代中期から後期にかけて活躍した俳人。初号は桃左・桃居。別号に三四坊・不二庵・売冠子・七彩堂・翁堂・白岳道人などがある。寛延3年(1750年)7月、師の希因の死後、全国各地の漂泊の旅に出た。明和8年(1771年)ごろに大坂に定住し、遊行寺の芭蕉塚を再建し、芭蕉顕彰の行事に力を注いだ。蕪村・几董らと交際し、芭蕉復興運動の一翼を担う存在となった。寛政10年9月には、二条家より俳諧宗匠の免許を許され、上方俳壇の重鎮となった。

生涯

勝見二柳(かつみ じりゅう)は、享保8年(1723年)、加賀国山中に生まれた。名は充茂。初号は桃左・桃居。別号に三四坊・不二庵・売冠子・七彩堂・翁堂・白岳道人などがある。

はじめ桃妖に俳諧の手ほどきを受け、桃左と号し、のち桃居と改めた。のち乙由(麦林)につき、その没後、暮柳舎希因の門に入り、二柳と改号した。

寛延3年(1750年)7月、師の希因の死後、生地の加賀国山中をあとにした二柳は、全国各地の漂泊の旅に出た。京をはじめ、東は尾張、西は備後、四国は阿波・讃岐、また南は紀州熊野にまで足をのばしている。この漂泊は、明和8年(1771年)ごろに大坂に定住するまで続けられた。

宝暦6年(1756年)春、竹阿は門人呉江を伴って北国路を歴遊し、金沢の麦水を訪れた。麦水に二柳への手紙を託された。

宝暦9年(1759年)12月、京都からの行脚の途次、兵庫・明石を経過して、但馬国生野に赴いた。その地で越年し、同地の俳人文狸の撰集『おちば籠』に序文を書いた。その年の暮れまで滞在し、その後近江八幡に向かった。宝暦9年には敦賀の琴路のもとで素龍筆の『奥の細道』(西村本)を披見し、「細道伝来記」をしるした。

宝暦12年(1762年)、二柳は京都より讃岐を訪れ丸亀で越年した。『壬午紀行』を著した。

明和のころ、阿波藩に仕えていた子息を頼って徳島を訪れた。徳島市の滝薬師に不二庵二柳の句碑がある。

明和8年(1771年)ごろ、大坂に定住した。可都里『名録帖』に「二柳大坂河原町八百屋町東南門 不二庵」とある。

大坂に来てからは、遊行寺の芭蕉塚を再建し、芭蕉顕彰の行事に力を注いだ。また蕪村・几董、大坂の大魯・大江丸、金沢から上洛していた闌更ら、当時一流の俳人らと交際を持ち、この時期の芭蕉復興運動の一翼をになう存在となった。

寛政5年(1793年)には遊行寺で芭蕉百回忌を営んだ。

寛政10年(1798年)9月には、二条家より俳諧宗匠の免許を許され、長命を保って、上方俳壇の重鎮となった。

享和3年(1803年)に死去した。墓所は大坂の梅旧院。

俳句歴

著作に『俳諧氷餅集』(俳諧撰集、1774年)、『俳諧直指伝』(俳諧論集、1775年)、『俳諧四季部類』(季寄せ、1780年)などがある。

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参考にさせていただいたWebサイト様
二柳(じりゅう)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 勝見二柳 二柳 -- 兵庫ゆかりの作家 兵庫県立美術館

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名充茂
別号桃左 桃居 不二庵 三四坊
生没1723 〜 1803

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