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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前期から中期にかけて活躍した医師・俳人。近江蕉門の古老として活躍した。貞享2年(1685年)、「野ざらし紀行」の旅で大津を訪れた松尾芭蕉に会いその場で入門した。水田正秀、森川許六、濱田洒堂、河合乙州等は尚白の手引によって蕉門に入り、近江蕉門隆盛に尽くした功績は大きい。後に師である芭蕉と対立し離脱した。

生涯

江左尚白(えさ しょうはく)は、慶安3年(1650年)、母の郷里である伊勢国朝熊に生まれた。本姓は塩川氏。幼名は虎助、後に大吉という。字は三益。別号に木翁、芳斎(芳斉)などがある。

早くに父祖の地である近江国に移り、大津桝屋町(現大津市浜大津2丁目)に住み、父祖代々の医業を営んだ。医業は祖父の代からの家業であった。

謡曲や囲碁、茶道にも通じた才人であったと伝えられている。また、書画の収集、花卉の培養など諸芸に通じた。流行を追わず穏健な風格であった。

晩年、咽喉に瘤ができたので老贅子と号した。

享保7年(1722年)7月1日(7月19日)に没した。73歳であった。札の辻本長寺に葬られた。

俳句歴

俳諧は、当初貞門派の安原貞室等に習い、貞門・談林の俳諧を学んだ。蕉風を慕い、親友である三上千那・僧青亜と同じく、貞享2年(1685年)「野ざらし紀行」の旅で大津を訪れた松尾芭蕉に会いその場で入門した。元禄元年(1688年)には芭蕉は大津を訪れ、尚白邸で俳諧興行を行った。

近江蕉門の古老(長老)として活躍し、水田正秀、森川許六、濱田洒堂、河合乙州等は尚白に師事した後、または尚白の手引によって蕉門に入った。尚白は好んで客を迎え、芭蕉もたびたび訪れている。多くの優秀な俳人を蕉門に親しみさせ近江蕉門隆盛に尽くした功績は大きい。

後に師である芭蕉と対立し離脱した。句集『忘梅』の出版を巡り芭蕉との師弟関係が崩壊した。芭蕉からの千那宛書簡(元禄4年9月28日)は関係崩壊の過程を示す貴重な書簡である。『忘梅』に千那が書いた序文について芭蕉が朱を入れたことで確執が生じたことに端を発した。これ以後、芭蕉と、千那や尚白との文通は残っていない。大津蕉門には、森川許六・河合乙州・菅沼曲水・高橋怒誰等の次世代門弟と、初代門弟との間には何時しかそよそよした隙間風が吹くようになっていった。芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡(元禄6年5月4日)「尚白ごとき」と記され垣間見える。蕉風後期の展開についてゆけず、芭蕉から離反した。

元禄7年(1694年)、芭蕉死去に際しては「しけ絹に 紙子取なふ 御影かな」の悼句を詠み、以後師匠を偲びひたむきに俳諧の道を歩んだと伝えられている。

編著に『孤松』『夏衣』『忘梅』がある。

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参考にさせていただいたWebサイト様
江左尚白の読み方とその略歴を知りたい -- レファレンス協同データベース 江左尚白 -- Wikipedia 尚白(しょうはく)とは? 意味や使い方 -- コトバンク

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
字三益
別号木翁 芳斎
生没1650 〜 1722

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