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俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和にかけて活躍した僧侶・俳人・画家。東本願寺第二十三代法主。俳号は「句仏」で、「句仏上人」として親しまれた。

生涯

大谷光演は1875年2月27日、東本願寺第二十二代法主大谷光瑩の二男として京都に生まれた。母親は木下氏、童名は光養麿である。法名は「彰如」である。俳号は「句仏」で、別号に愚峰、春坡、蕪孫、獅子窟主人などがある。妻は三条実美の三女・章子で、長男は大谷光暢である。

幼少より病弱で、12歳のころ、病により片足が不自由となった。1885年、10歳で得度した。1900年まで南条文雄・村上専精・井上円了らについて修学した。また幸野楳嶺や竹内栖鳳に日本画を学び、書は杉山三郎に師事した。

1900年5月、仏骨奉迎正使としてタイを訪問した。1901年、真宗大谷派副管長となった。1906年、札幌で仏教主義の女子学校として北海女学校を開校した。

1908年11月、退隠した父・光瑩より第二十三代法主を継承し、真宗大谷派管長となった。1911年、宗祖親鸞聖人六百五十回御遠忌法要を厳修した。1923年、伯爵となった。

光演が父親から法主を受け継いだ1908年当時、普段の出費過剰に加えて、焼失講堂の再建費や北海道開拓事業費、明治政府への賦課金などで東本願寺は巨額の負債を抱えていた。光演は再建のため海外投資などを試みたが全て失敗し、債権者の返済要求により所有資産の限定相続宣告に追い込まれた。監督官庁である文部省が指導に入り、岡田良平文相の忠告で光演は管長職を諭旨退職することになり、本願寺住職も辞し、1925年、朝鮮半島における鉱山事業の失敗から、東本願寺の財政を混乱させ引責・退隠し、長男の闡如に法主を譲った。これに反発して、句仏上人擁護運動も展開されたが、1925年に大谷家相続財産の破産宣告が下され、1929年には光演の僧籍も削除された。光演を支持して抗議運動を展開した近角常観らも僧籍を剥奪されたが、1935年に僧籍復帰は認められた。

1943年2月6日、68歳にて示寂した。

俳句歴

正岡子規の影響を受け、1898年より「ホトトギス」誌にて河東碧梧桐、高浜虚子らに選評してもらい、彼らに傾倒して師と仰いだ。後に「ホトトギス」誌の影響から脱し独自の道を歩んだ。

1914年以降は雑誌「懸葵」を主宰した。

生涯に多くの俳句(約2万句)を残し、文化人としての才能を発揮、日本俳壇界に独自の境地を開いた。「句仏上人」(「句を以って仏徳を讃嘆す」の意、あるいは「句をもって、仏事をなす」の意)として親しまれた。

句集に「夢の跡」「我は我」「句仏句集」などがある。

その他の特記事項

日本画を幸野楳嶺や竹内栖鳳に学び、画集「余事画冊」がある。書画にも優れ、書は杉山三郎に師事した。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
大谷光演 -- Wikipedia 大谷光演(オオタニ コウエン)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 大谷光演(句佛) -- 長良川画廊

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名光演
通称句仏上人
生没1875 〜 1943

現在、18句の俳句が登録されています。