優れた俳句をデジタルデータとして保存し、後世に残すために俳句データベースを開発しています。

俳人の説明

管理人による説明

大正から平成にかけて活躍した俳人。飯田蛇笏の四男として生まれ、戦後俳壇に伝統派の旗手として活躍し、「雲母」を主宰した。

生涯

飯田龍太(いいだ りゅうた)は1920(大正9)年7月10日、山梨県東八代郡五成村小黒坂(現在の笛吹市境川町小黒坂)に生まれた。父は俳人の飯田蛇笏(武治)、母は菊乃で、四男であった。父・蛇笏は早稲田大学英文科を中退し、境川の自宅「山廬」において農事のかたわら句作を行い、1930年には俳誌「雲母」の発行所を山廬に置いた。

幼少期には病弱で、祖母により育てられた。小学校のころから国語に秀でており、小学校1年の時には作文で表彰されている。1927年に境川尋常小学校に入学し、1933年には甲府市の旧制甲府中学校に入学してバス通学した。中学時代にはトルストイを読み、標語募集で入賞するなどしていた。

1938年に甲府中学を卒業したが、高等学校受験に失敗し、上京して予備校に通い、東京麹町三番街の次兄・数馬宅で浪人生活を送った。このころには神田の古書店街にも通い、文芸書に親しんだ。1940年、折口信夫が教鞭をとっていたことに惹かれ、國學院大學文学部国文科に入学した。大学在学中より句作をはじめ、父・蛇笏の主宰する俳誌「雲母」の句会「青光会」に所属した。

1941年4月、右肺浸潤のため一時休学し帰郷した。同年6月には兄の数馬が病死している。翌年4月に復学したが、右肋骨にカリエスが発症したため、1943年2月にふたたび帰郷し手術を受けた。病気のため兵役免除となった。この間、次兄が1942年に病死、長兄がレイテ島で、三兄が外蒙古で戦死した。戦中から戦後間もなくまでは境川村で農業に専念し、牛二頭を使って一町歩あまりの耕作地を耕した。また戦後間もない時期に馬鈴薯増産法の懸賞論文に応募し、農事試験場長や大学教授などを差し置いて一等を取っている。

1947年、國學院大學を卒業し、卒業論文は「芭蕉の悲劇性の展開」であった。同年7月に帰郷し「雲母」編集に携わった。1951年より山梨県立図書館に3年間勤務した。この間、1952年に俳句作家として立つ決意を固めた。また1953年には、講演のため山梨に来ていた井伏鱒二に会い、以後長きにわたって交友を深めた。

1962年に父・蛇笏が死去し、龍太は300年続く大庄屋飯田家の家督を継いだ。「雲母」主宰を継承し、また毎日新聞俳句欄選者に就任した。1992年8月、「雲母」を900号をもって終刊した。主宰自らの決断で伝統ある俳誌の幕引きを行ったことで俳壇に衝撃を与えた。この終刊以後、句の発表がなくなり事実上俳壇から退いた。2007(平成19)年2月25日、肺炎のため甲府市内の病院で死去した。享年86歳であった。

俳句歴

龍太は戦後俳壇に伝統派の旗手として頭角を現し、父の死後は「雲母」を主宰して戦後の俳壇において森澄雄とともに伝統俳句の中心的存在として活躍した。俳句を「普段着の文芸、庶民の文芸である」と語り、俳句の裾野を広げようと俳句愛好家の指導に尽力した。

1954年に第一句集『百戸の谿』を刊行し、以後、生前あわせて十冊の序数句集を刊行した。代表句に「紺絣春月重く出でしかな」「春すでに高嶺未婚のつばくらめ」「いきいきと三月生る雲の奥」「大寒の一戸もかくれなき故郷」「父母の亡き裏口開いて枯木山」「一月の川一月の谷の中」「かたつむり甲斐も信濃も雨の中」「白梅のあと紅梅の深空あり」などがある。故郷山梨の大自然の中での生活、風土を柔軟な感性と格調高い文体で詠んだ句が多い。

伝統俳句の雄としてしばしば森澄雄と比較されたが、山本健吉は風土性という点に澄雄との大きな違いがあるとし、「虚実という点から言えば、澄雄氏は虚に傾き、龍太氏には実に傾く度合いが強い」と評した。同世代の三橋敏雄は、龍太の句業はいずれも「龍太におけるいわば土着精神に裏打ちされた、心象としての甲斐国細見の趣」があると述べた。

具象的な作品に止まらずときに抽象的・象徴的表現に傾くことにも特徴があり、特に棲家の裏を流れる狐川を詠んだという「一月の川一月の谷の中」は賛否両論を起こし現在まで様々な批評・鑑賞が書かれている。最初にこの句を高く評価したのは前衛派の中村苑子であった。山本健吉は石田波郷の句を思わせるとし、「思惟を超えた境に得た句」「それだからこそ、具象抽象の差別を超えて読む者の魂を掴むのである」と評した。

龍太は詩の秘密を「初心にかえること」「気張らず息まず、正直におもいをのべること」と語り、手初めのときはきわめて高い境地とすぐ隣り合っているとし、進歩とはその距離を正しく知ることだと述べた。

その他の特記事項

1949年に第2回山梨県文学賞、1956年に第1回山日文学賞、1957年に第6回現代俳句協会賞、1969年に第4句集『忘音』で第20回読売文学賞、1981年に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞した。1983年に紫綬褒章を受章し、1984年に日本芸術院会員となった。1976年より2004年まで蛇笏賞選考委員を務めた。郷土山梨での文芸活動にも携わり、やまなし文学賞や山梨県立文学館の創設、山梨日日新聞の文芸欄の選者などを務めた。

1981年、龍太の「日常のこころを大切に」という言葉とともにNHK学園俳句講座が創設された。講座を創設するにあたり龍太がこだわったのは丁寧な添削指導であった。2014年にNHK・NHK学園により「飯田龍太賞」が創設され、2019年より「龍太賞」と改められた。

作家の井伏鱒二とは1953年に出会って以来、40年あまりにわたって交際を続け、多くの往復書簡が残されている。現存する最古の井伏宛書簡は1955年3月12日で、井伏の死去する前年にあたる1992年まで405通の書簡が現存している。

句集として『百戸の谿』『童眸』『麓の人』『忘音』『春の道』『山の木』『涼夜』『今昔』『山の影』『遅速』など、随筆集として『無数の目』『思い浮かぶこと』『山居四望』『遠い日のこと』など、評論集として『俳句入門三十三講』『俳句・風土・人生』『鑑賞歳時記』など多数の著作がある。2005年には『飯田龍太全集』全10巻が刊行された。

2024年3月、笛吹市教育委員会定例会において、自宅「山廬」のうち母屋と俳諧堂を笛吹市が買取ることが了承された。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
飯田龍太 -- Wikipedia 一般社団法人 山廬文化振興会 -- Syncable 俳人・飯田龍太 生誕100年 -- NHK学園

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
生没1920 〜 2007

基準
向き
件数

現在、64句の俳句が登録されています。

    • 春夕焼 はるゆうやけ
      季節: 春(三春) 分類: 天文(天空)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 春
      p.48
    • 金鳳花 きんぽうげ
      季節: 春(晩春) 分類: 植物(キンポウゲ目)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 春
      p.208
    • 山女 やまめ
      季節: 夏(三夏) 分類: 動物(魚類)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 夏
      p.162
    • 葉月 はづき
      季節: 秋(仲秋) 分類: 時候(暦)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 秋
      p.21
    • 秋分 しゅうぶん
      季節: 秋(仲秋) 分類: 時候(暦)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 秋
      p.23
    • 芋虫 いもむし
      季節: 秋(初秋) 分類: 動物(昆虫等)
    • 角川ソフィア文庫 第4版増補 俳句歳時記 秋
      p.134
    • 一月 いちがつ
      季節: 冬(仲冬) 分類: 時候(暦)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 冬
      p.26