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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代で最も有名な女性俳人。各務支考に才能を認められ、自然に対する深い愛情を表現した俳句を詠んだ。朝鮮通信使へ俳句を献上し、俳句による国際交流の先駆け役を果たした。

生涯

加賀千代女(かが の ちよじょ)は、元禄16年(1703年)2月、加賀国松任町(現在の石川県白山市)の表具師、福増屋六兵衛の長女として生まれた。幼い頃の名前は「はつ」という。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。表具師とは、掛軸、屏風、襖、衝立、額、画帖などの、布や紙などを張ることによって仕立てられた巻物を作る職業である。

家は比較的裕福であったが、千代女は生まれつき身体が弱く、健康には優れなかった。このため、父である六兵衛は娘の健康を願って、地元の松任の松にも縁のある千代女(別名・千代)という俳号を授けたと言われている。幼い頃から父が集めた書画に囲まれて育ち、6歳の頃にはすでに俳句を詠んでいたと伝わっている。千代女が生まれた時代、土地では蕉風俳諧が隆盛を見せており、幼い頃から俳諧に親しんでいた。

12歳の頃、奉公した本吉の北潟屋主人の岸弥左衛門(俳号・半睡、後に大睡)から俳諧を学ぶための弟子となった。16歳のころには女流俳人として頭角をあらわした。

17歳のころ、諸国行脚をしていた各務支考が地元に来ていると聞き、宿に赴き弟子にしてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められた。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公とて明にけり」という句でついに支考に才能を認められ、「あたまからふしぎの名人」と評された。このことから名を一気に全国に広めることになった。

結婚したか否かについては説がわかれている。結婚説では享保5年(1720年)、18歳のとき金沢の福岡某(一説に金沢大衆免大組足軽福岡弥八)に嫁ぐが、20歳のとき、夫と死別し松任の実家に帰ったとする。しかし、結婚経験があるかどうかも確証はない。その後、両親や兄弟が相次いで亡くなり、30代半ばから一時、家業を切り盛りするために俳句から離れた。

30歳のとき、京都で中川乙由にあった。画を五十嵐浚明に学んだ。40代後半から俳句の創作に情熱を注いだ。52歳には剃髪し尼僧となり、素園と号した。家業を養子の六兵衛に譲って、俳諧に専念するようになった。その9年後に『千代尼句集』を書き上げた。

宝暦13年(1763年)、61歳のとき、朝鮮通信使一行が徳川家治の第10代将軍就任祝賀のために来日した際、加賀藩の命を受け、掛軸6幅と扇15本に自作の句を書いて献上した。これは日本の俳句作品が公式に海外へ紹介された極めて初期の事例であり、千代女は俳句による国際交流の先駆け役を果たした。

72歳のとき、与謝蕪村の『玉藻集』の序文を書いた。安永4年(1775年)10月2日、73歳で没した。辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」。

俳句歴

千代女の句は情緒的で、豊かな感性と自然に対する深い愛情がうかがえる。生まれ育った土地の豊かな自然と四季折々の美しい風景が、彼女の作る句に影響を与えたと言える。千代女が一生のうちに詠んだ俳句は、現在までに約1900句確認されている。

句集に『四季帖』『千代尼句集』『松の声』などがある。明治時代には、ドイツの日本文学研究者カール・フローレンツや英国の言語学者バジル・ホール・チェンバレンによって千代女の俳句が翻訳、紹介されたことで、「女詩人チヨ」としてその名が世界に広がった。

朝顔を多く詠っていることから、出身地の旧松任市では市のシンボル、合併後の現・白山市では市の花に選ばれた。白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。

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参考にさせていただいたWebサイト様
加賀千代女 -- Wikipedia 加賀千代女 -- 日本俳句研究会 自然に対する深い愛情を表現した俳人:加賀の千代女 -- 政府広報オンライン

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別女性
別名千代(ちよ) 千代尼(ちよに)
別号草風
生没1703 〜 1775

現在、10句の俳句が登録されています。