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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。松尾芭蕉に師事したが、素行問題で一時勘気を蒙った。芭蕉没後、追善供養を行った。

生涯

八十村路通は、慶安2年(1649)頃に生まれた。八十村氏。露通とも。通称は与次衛門。忌部伊紀子、斎部老禿路通とも記している。出生地については、美濃から大阪、京、筑紫、近江大津の人で三井寺に生まれるなど様々な説があり、路通は漂泊者であり、近江の草津・守山辺りで芭蕉と出会ったことだけが事実と確認できる。もとは神職の家柄で、古典や仏典に精通していた。

『蕉門頭陀物語』によれば、芭蕉が草津・守山の辺で出会った乞食が路通である。乞食が和歌を楽しなむとの話に、芭蕉は一首を求め「露と見る浮世の旅のままならばいづこも草の枕ならまし」と乞食が詠んだ所、芭蕉は大変感心し、俳諧の道を誘い師弟の契りを結び、路通(又は露通)の号を乞食に与えた。貞亨2年(1685)春に入門した。

俳句歴

路通は芭蕉との出会いの後、江戸深川の採荼庵に芭蕉を訪ねたとされ、貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したと見られている。『笈日記』によれば元禄元年(1688)9月10日江戸素堂亭で催された「残菊の宴」、それに続く「十三夜」に宝井其角・服部嵐雪・越智越人等と共に参加していることが、路通が記録された最初の資料とされる。句が初めて見えるのは元禄2年(1689)の『廣野』からで、元禄3年(1690)『いつを昔』にも句が載っている。

元禄2年3月27日、芭蕉が河合曾良を伴い「奥の細道」の旅に出ると、路通も漂泊の旅に出て近江湖南周辺を彷徨い、越前敦賀に旅より戻った芭蕉を迎え、大垣まで同道したとされる。芭蕉が故郷伊賀に帰ると、路通は住吉神社に千句奉納を行い近畿周辺を彷徨った後、元禄3年には大津に出てきた芭蕉の下で濱田洒堂との唱和を行った。その直後、師の辿った細道を自ら踏むため旅立ち、出羽等に足跡を残し、同年11月江戸に戻ると俳諧勧進を思い立ち翌元禄4年(1691)5月『勧進帳』初巻を刊行した。同じ元禄4年の『百人一句』に江戸にて一家を成せる者として季吟・其角・嵐雪等と共に路通の名があり、俳壇的地位は相応に認められていた。

ただし『勧進帳』において曲翠との不和が窺え、また元禄4年7月刊行された『猿蓑』において「いねいねと人に言われつ年の暮」と詠むなど、蕉門において疎まれていたことが窺える。向井去来の『旅寝論』によれば「猿蓑撰の頃、越人はじめ諸門人路通が行跡を憎みて、しきりに路通を忌む」とあり、許六は『本朝列伝』において、路通のことを「その性軽薄不実にして師の命に長く違う」と記している。

元禄6年(1693)2月の芭蕉から曲翠宛の手紙において、路通が還俗したことが記され「以前より見え来ることなれば驚くにたらず」と述べ、『歴代滑稽傳』に勘当の門人の一人として路通が記されるに到っている。その後、路通は悔い改めるべく三井寺に篭もったとされる。元禄7年10月12日、芭蕉の臨終に際して、芭蕉は去来に向かい「自分亡き後は彼(路通)を見捨てず、風雅の交わりをせらるるよう、このこと頼み置く」と申し添え破門を解いた。

芭蕉死後、路通は俳諧勧進として加賀方面に旅に出、また『芭蕉翁行状記』を撰び師の一代記と17日以降77日までの追善句を収め元禄8年(1695)に出版した。元禄12年(1699)より数年、岩城にて内藤露沾の下にて俳諧を行い、宝永元年(1704)冬には京・近江に戻り、晩年享保末年頃大阪に住んでいたと伝えられる。路通の死亡日時は元文3年7月14日(1738年8月28日)と言う説があるが、定かではない。

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参考にさせていただいたWebサイト様
八十村路通 -- Wikipedia 八十村路通 Who'sWho -- 山梨県立大学 八十村路通 -- インターネット俳句

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
別号与次衛門 忌部伊紀子 斎部老禿路通
生没1649 〜 1738

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