筏井竹の門 (いかだい たけのかど)
俳人の説明
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生涯
筏井竹の門(いかだい たけのかど)は、明治4年(1871年)10月16日、石川県金沢市裏千日町に旧加賀藩士の子として生まれた。旧姓は向田、本名は虎次郎。別号に北雪、四石、此君、雪の村人、松杉窟などがある。未熟児で体は小さく虚弱体質であったという。長男は歌人の筏井嘉一。
野町小学校卒業後は、紺屋に奉公に出された。虎次郎は染物の下弟子として図画を習った。これが将来、俳画に目覚める素地となった。
のち北陸新報社の文選工(活字拾い)となった。この頃、同社には室生犀星が給仕として在職していた。明治20年頃から兄の影響で句作を始め、新聞にも掲載されたという。
明治25年(1892年)、姉婿の弁護士・鶴見武三郎を頼り富山県高岡市に転居し、その事務員となった。また綿糸商を営んでいた筏井家の婿養子に入り、姓を向田から筏井と改めた。
大正14年(1925年)3月29日に死去した。53歳であった。
俳句歴
地元の新聞社、北陸新報に文選工として勤務しながら、正岡子規の日本派に影響されて俳句を始めた。高岡に転居すると、子規の『日本』俳壇に投句した。
明治30年(1897年)、子規門で新傾向俳句の河東碧梧桐が高岡を訪れた際に碧梧桐と会い傾倒した。寺野守水老、山口花笠などと共に9人で日本派俳句会「越友会」を立ち上げた。
明治39年(1906年)に自身の句誌「葦附」を主宰し、沢田はぎ女を輩出するなど、北陸の俳句界を牽引した。
明治41年(1908年)には高岡新報(現在の北日本新聞)の選者となった。
明治44年(1911年)に日本画家の冨田溪仙に師事し、数多くの優れた俳画も残している。晩年、冨田溪仙との親交から俳画にのめり込み、野草などを好んで描き、独特の画風で多くの作品を残した。
近代高岡の文芸界の盟主として、郷土の俳壇の発展に尽力した。多くの弟子を育て、俳壇の振興発展に尽力した。弟子には陶芸家の内島北朗などがいる。多くの俳人から慕われていたことが、俳誌「懸葵(竹の門追悼号)」などからわかる。
句集に「竹の門句集」(1921年・高陵社)がある。また「筏井竹の門遺墨百選」(1974年・高岡市立美術館編)がある。
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参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。
バイオ
現在、4句の俳句が登録されています。
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雪崩
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- あしのつの やまかげみずに うごくかな
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竹夫人
ちくふじん
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木犀
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