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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前期の俳諧師。松尾芭蕉に師事し、蕉門の代表撰集「猿蓑」に多数入集した実力者。

生涯

中村史邦(なかむら ふみくに)は、生没年不詳の江戸時代前期に活躍した俳人である。通称は大久保荒右衛門、のち根津宿之助と称した。尾張国犬山(現・愛知県犬山市)の出身である。

医師として寺尾土佐守直龍(尾張犬山藩主の養子)の侍医を務め、医名は春庵と名乗った。のち去来の手引きで上京し、仙洞御所(上皇の御所)に出仕し、京都所司代の与力を勤めた。

元禄五年(1692年)頃、芭蕉の書簡によれば、史邦は俳諧にのめり込み過ぎたことで職場で足を引っ張られ、与力の立場が危うくなっていた。元禄六年(1693年)七月に与力を辞職し、江戸へ移住した。原因は仕事の上の不祥事と伝えられるが、俳諧活動に熱中したことが一因であったとされる。

芭蕉没後は目立った活躍もなく、没年もわかっていない。ちょっとさびしい晩年になったようである。

俳句歴

1690年から1691年(元禄3年から4年)頃、松尾芭蕉の教えを受け、向井去来や各務支考らとも交流した。芭蕉門下の実力者として認められ、元禄四年(1691年)に芭蕉が帰東する際には、二見の文台、硯箱、自画像を与えられるなど、師から信頼された弟子であった。

元禄四年(1691年)刊行の「猿蓑」は、俳諧の「古今和歌集」と呼ばれ、蕉門の最高の作品とされる。発句の作者百八名のうち、史邦は五番目に多い十四句が入集している。また歌仙四巻のうち「鳶の羽もの巻」を芭蕉・去来・凡兆との四人で巻いている。当時は蕉門でもかなりの実力者であった。

俳人としての全盛期は「猿蓑」の頃で、その後は飛躍し得なかった。芭蕉の死後、逸早く遺句・遺文を集めて追悼集「芭蕉庵小文庫」を元禄九年(1696年)に編集刊行した。特に「嵯峨日記」の伝来は有名である。

その他の特記事項

史邦の句には動物を扱ったものが多いという特色がある。柴田宵曲の調査によれば、史邦の句に現れる動物の種類は約五十種に及び、他の蕉門俳人と比較しても多様である。ただし、去来や丈草が時鳥や鶯など季題的動物を多く詠んだのに対し、史邦は馬の句八句、猫の句六句が最も多く、季題的動物への偏愛は見られない。

代表句に「どくだみや繁みが上の馬ほこり」「板壁や馬の寐かぬる小夜しぐれ」「はつ雪を誰見に行し馬の糞」「蠅打や暮がたき日も打暮し」などがある。その作風は、去来のような画趣の美しさはないが、妙に実感に富み、動物との親しみが自然なものである点が特徴とされる。

芭蕉の書簡には、「去年人々が集まり、出版の版木や歳旦の三つ物などと、ちょっと騒ぎ過ぎのことがありましたので、口達者な者達から憎まれたのでしょう」「できるだけ他の人たちとのお付き合いは止め、物事に執着しないで、本当に静かに静かに俳諧の修業をしてほしい」という記述があり、史邦の俳諧活動への熱中ぶりと、それが職場での軋轢を生んだことが窺える。

芭蕉から譲られた「二見の文台」は、後に能村登四郎の母方の伯父で、登四郎が俳句の手ほどきを受けた山本安三郎(俳号六丁子)が所蔵していたという。

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参考にさせていただいたWebサイト様
中村史邦(なかむらふみくに)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 史邦 一 -- Blog鬼火~日々の迷走 私の好きな芭蕉の手紙Ⅲ(史邦のこと) -- 芭蕉会議

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
通称根津宿之助

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