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俳人の説明

管理人による説明

昭和期の俳人。加藤楸邨に師事し、社会性俳句を推進した。「風」を創刊し、「風涛」を主宰した。

生涯

原子公平(はらこ こうへい)は1919年(大正8年)9月14日、北海道小樽市に生まれた。旧俳号は原子案山子である。小児麻痺のため小学生のころから松葉杖を使用し、高校受験にも差別を受けるなど多くの辛酸をなめた。北朝鮮元山中学校を経て旧制第三高等学校に進学し、その後東京帝国大学文学部仏文学科を卒業した。1944年(昭和19年)9月に繰り上げ卒業となった。卒業後は岩波書店、小学館などに勤務した。

1952年(昭和27年)4月、10歳下の飯田芳江と結婚した。式はなく、神保町「江戸善」の2階で無礼講の宴が行われ、楸邨と草田男が仲人のごとく臨席した。

中村草田男との関係では、草田男第4句集『来し方行方』(1947年)の出版に尽力し、草田男から深い謝辞を受けた。1962年(昭和37年)に「萬緑」同人を除名され、草田男との関係が途絶えたが、1978年(昭和53年)3月、銀座「金鶏会館」での橋本夢道を偲ぶ会で再会し、和解した。

2004年(平成16年)7月18日、胃癌のため死去した。84歳であった。

俳句歴

俳句は三高時代に「馬酔木」に投句し始めた。その後加藤楸邨に師事し、「寒雷」同人となった。1946年(昭和21年)、澤木欣一、細見綾子らとともに「風」を創刊した。澤木欣一とは北朝鮮の元山中学校の同窓で、以来生涯にわたり親交を続けた。欣一の第一句集『雪白』は、細見綾子と原子公平の尽力で出版された。

「風」創刊号には自選50句「餅の力」を発表し、5か月後には短編小説「符牒」を発表するなど、俳句および評論を通じて社会性俳句を推進した。特に1955年(昭和30年)に発表した「山本健吉の時評」は社会性俳句の論争のきっかけとなった。1952年(昭和27年)より現代俳句協会幹事を務めた。

1953年(昭和28年)に「萬緑」同人となったが、1962年(昭和37年)に退会し、「海程」同人となった。また「秋」にも同人として参加した。1973年(昭和48年)に「風涛」を創刊し、主宰となった。

第一句集『浚渫船』は1955年(昭和30年)に刊行され、1939年(昭和14年、20歳)より1955年(昭和30年、36歳)までの554句を収録した。巻頭には「中村草田男先生に」という献辞があり、マラルメの詩句「肉体は悲し、ああ!」が引かれている。その他の句集に『良酔』『酔歌』『海は恋人』『夢明り』などがあり、評論集に『俳句変革の視点』などがある。

2000年(平成12年)に現代俳句協会大賞を受賞した。

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参考にさせていただいたWebサイト様
戦後の空から夢明りへ 原子公平 -- 石榴舎ブログ『俳句は自伝』 原子公平 -- Wikipedia 原子公平 -- Scrapbox

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

生没1919 〜 2004

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