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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代中期の俳諧師。平淡清新な抒情で俳諧中興期の一翼を担い、俳諧中興の六客の1人に数えられた。

生涯

三浦樗良(みうら ちょら)は、享保14年(1729年)、志摩国答志郡鳥羽城下の大里(現在の三重県鳥羽市鳥羽)で生まれた。名は元克、字は冬卿、通称は勘右衛門(または勘兵衛)。鳥羽藩士であった父が致仕したため、寛保2年(1742年)頃、伊勢国度会郡山田(現在の伊勢市)岡本町に移住した。

樗良の生涯は転居と放浪を繰り返すものであった。40歳の頃には妻を伴い江戸に下り、窮迫の放浪生活を送った。その間に剃髪し、明和5年(1768年)に法体となり、法号は玄仲(または玄伸)と称した。別号に一呆廬、二股庵、無為庵がある。

安永2年(1773年)には上洛して与謝蕪村の唱和に加わり、これを契機にしばしば京に上り、蕪村一門との親交を重ねた。安永5年(1776年)、京都木屋町三条に無為庵を移し、樗良の俳諧師としての絶頂期は、この京の無為庵を中心に活躍した時期とされる。多数の門人を得るとともに、樗良一派の代表撰集も在京中に編まれた。

安永9年(1780年)春、山田に帰郷し、その秋の11月16日に没した。享年52歳。墓は伊勢市尾上町の寿厳院に構えられ、同院には山田で詠んだ「わか庵は 榎はかりの おちは哉」の句碑(落葉塚)もある。

俳句歴

樗良は、貞門派の流れを汲む紀州長島の百雄に俳諧を学んだ。地方俳壇の二大勢力であった美濃派と伊勢派のうち、伊勢派(中川乙由の麦林舎・神風館)との接触は20歳前後と思われる。

宝暦3年(1753年)作の「名月や油とらるるひきがへる」があり、父の浪人生活により、雑俳(伊勢笠付)の点者として活躍したり、花生を作ったり、後のユニークな俳画に発展した絵も早くから生活のため描いていた。

宝暦9年頃には南紀木本に滞在し、処女撰集『白頭鴉(白髪鴉)』(1759年)を刊行した。翌年には『ふたまた川』(1761年)を刊行する。この頃、伊勢風を抜けて独自の新風を起こした。

34歳の時、宝暦12年(1762年)に伊勢山田市中に無為庵を結び、「我庵は榎ばかりの落葉哉」の句を得て、『我庵』を刊行し、平明な風調を確立して俳名を揚げた。有力な門下を擁して蕉風の俳諧中興期の蕉風復古を成す一人として活躍し、俳諧中興の六客の1人に数えられた。

樗良は、麦林風の知巧よりも涼菟の平明調を和歌的抒情のうちに新生せしめた作風と言われている。伊勢風の知巧を反省して淡泊・温雅な余情を尊んだ。

宝暦、明和期には越後高田、越中井波、加賀、小松などの北越・北陸に地盤を築き、初期蕉風による蕉風復古運動に指導的役割を果たした。安永に入ると活動は絶頂期を迎え、尾張、播磨、京都にも活動の場を広げた。安永2年(1773年)には岐阜にも来て冠句を初代細味庵東坡に伝えたといわれている。

京都木屋町三条に無為庵を移してからは、蕪村、几董、嵐山との四歌仙興行『此のほとり一夜四歌仙』が有名で、京都の門人も増えた。

晩年には、北越方面の旅『菊の香』、北陸では『雪の声』『まだら雁』、在京中は『月の夜』『一日行脚』を刊行した。

没後には『樗良発句集』『樗良文集』『樗良七部集』が刊行された。

その他の特記事項

樗良は俳画の分野でも独自性を発揮し、当時の俳人中屈指の力量で、妙味あふれる作品を数多く残した。素朴さの中にも独自性の高い俳画が特徴である。

代表句として、「我庵は榎ばかりの落葉哉」のほか、「さくら散る日さへゆふべとなりにけり」「水音の袂にこたふ涼みかな」などが知られる。四季類題別に編まれた『樗良発句集』には、加茂川での納涼を詠んだ句も収められている。

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参考にさせていただいたWebサイト様
三浦樗良 -- Wikipedia 無為庵樗良 -- 狂俳 先人たちの俳句紀行 -- JR西日本

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名元克
別名勘右衛門
字冬卿
別号玄仲 一呆廬 二股庵 無為庵
通称勘右衛門
生没1729 〜 1780

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