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俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和期にかけて活躍した陸軍軍人・俳人。陸軍少将として在外武官などを歴任し、退役後は衆議院議員も務めた。五百木瓢亭に学び、正岡子規の薫陶を受けた。

生涯と俳句歴

佐藤肋骨(さとうろっこつ)は、明治4年(1871年)1月21日、東京に生まれた。本名は佐藤安之助(さとう やすのすけ)。旧姓は高橋で、高橋正兵衛の四男として生まれ、のちに佐藤氏の養嗣子となった。別号に低囊、隻脚庵主人、肋骨生がある。

明治28年(1895年)、陸軍士官学校を卒業し、歩兵少尉に任官された。陸軍大学校も卒業している。同年の台湾役(日清戦争)に従軍した際、右脚を失うという大きな負傷を負った。この経験から「隻脚庵主人」という別号を用いるようになった。

その後、陸軍における経歴を重ね、関東都督府陸軍部附として南満州鉄道奉天公所長事務取扱を命じられた。さらにスイス公使館附武官・スイス駐在員取締に転じ、在外武官として20年余に及ぶ勤務を経験した。パリ講和会議の全権随員も務めている。大正8年(1919年)には陸軍少将に昇進し、参謀本部附、教育総監部附、陸軍技術会議議員などを歴任した。陸軍省軍事調査委員長、満鉄顧問なども務めた。大正11年(1922年)4月1日、依願退役となった。

退役後は、昭和3年(1928年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬して当選し、衆議院議員となった。また、東洋協会理事、拓殖大学評議員、大阪毎日新聞社友などの役職を務めた。支那通として知られ、「満蒙問題を中心とする日支関係」「支那問題」などの著書を著した。

俳句については、近衛連隊に在職中、五百木瓢亭や新海非風らに刺激されて俳句の道に入った。五百木瓢亭に学び、明治29年(1896年)からは子規庵の句会に列席し、正岡子規の薫陶を受けた。句集は編まれなかったが、「新俳句」「春夏秋冬」などの俳誌に多くの句が選ばれている。

昭和19年(1944年)3月14日に没した。墓所は雑司ヶ谷霊園である。蔵書和漢洋合わせて3千余冊と拓本1千余枚は拓殖大学に寄贈され、「佐藤文庫分類目録」(昭和44年)が作成されている。

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参考にさせていただいたWebサイト様
佐藤安之助 -- Wikipedia 佐藤肋骨(サトウ ロッコツ)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 佐藤肋骨 -- 日本の古本屋

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

生没1871 〜 1944

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