優れた俳句をデジタルデータとして保存し、後世に残すために俳句データベースを開発しています。

水田西吟 (みずた さいぎん)

俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前期の俳人。談林派俳諧の祖・西山宗因に師事し、後には井原西鶴にも学んで西鶴の側近として活動した。能書の才を買われて西鶴の『好色一代男』の跋文と板下を書いたことで著名。大坂で30年を過ごした後、桜塚の地に落月庵を営み、伊丹の上島鬼貫など当代の俳人たちとも親しく交わった。

生涯と俳句歴

水田西吟(みずた さいぎん)は、摂津国巌屋(現、神戸市灘区)に生まれた。姓は水田、名は元清、通称は庄左衛門、別号は桜山子、落月庵、岡松軒。摂津守荒木村重の家臣水田和兵衛の4世である。水田氏は代々和歌・連歌の風流に遊ぶ文化的家系で、西吟もはやくから大坂に出て西山宗因に俳諧を学び、のち井原西鶴に属して有力な取巻きの一人となった。

延宝4年(1676年)、『昼網集』の万句を興行して俳諧宗匠となり、西翁(宗因)の1字を拝領して西吟を名のり、大坂中町に俳諧の会所を開いた。翌年、居を摂津国桜塚(現、大阪府豊中市)に移し、住いを落月庵と名づけ、庭に桜・躑躅などを植えて、『桜万句』『羊躑万句』を興行するなど風流に興じた。

延宝5年(1677年)、能書の才を買われて『西鶴俳諧大句数』の執筆をつとめてからはいっそう西鶴に親しみ、執筆・連衆として常に側近にあり、天和2年(1682年)の『好色一代男』の跋文と板下を書いたのを皮切りに、浮世草子の出版の面でも協力するに至った。この『好色一代男』の板下を書き、その跋文を草したことが西吟の名を著名にしている。

伊丹の上島鬼貫、百丸らとも親しく、門人も多い。数多くの弟子たちを育てたといわれ、近くの瑞輪寺には彼らによって建てられた供養塔「西吟の塔」がある。伊丹の俳人とは特に交流があった。

宝永6年(1709年)、摂津の桜塚で死去した。享年七十余。

編著に『庵桜』(1686年)、『寝覚廿日』(1688年)、『難波桜』(1688年)、『橋柱』などがある。

元禄16年(1703年)には、原田村の氏子連中から原田神社に奉納された俳諧額の点者をつとめた。この額には、西吟が出した前句7句に続き、選ばれた100句の秀逸句が順に並べられており、原田、服部、熊野田など地元の村々だけでなく、遠くは大坂からも広く応募されたことが窺われる。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
水田西吟(みずたさいぎん)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 西吟(さいぎん)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 水田西吟撰原田神社奉納俳諧額 -- 豊中市

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
生没〜 1709

現在、1句の俳句が登録されています。