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俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和初期にかけて活躍した俳人。明治28年(1895年)、毎日新聞に『俳諧風聞記』を発表し俳壇に登場。角田竹冷の秋声会に加わったが脱会し、明治34年(1901年)に『半面』を創刊して新々派と称し、正岡子規の日本派や秋声会に対した。俳句の史的研究を行い、多くの俳書を収集した。

生涯と俳句歴

岡野知十(おかの ちじゅう)は、安政7年2月19日(1860年3月11日)、蝦夷(北海道)日高様似(現・様似郡様似町)に生まれた。本名は岡野敬胤。通称は正之助、別号は正味。旧姓は木川。知十の他にも正味、綾川、借蒼居、我物庵、傘雪、月庵、味余亭、清浅窓など様々な筆名を用いている。

北海道生まれではあったが、江戸っ子気質そのものであったようだ。人後に落ちない趣味人であった。

明治28年(1895年)、毎日新聞に『俳諧風聞記』を連載、当時の俳壇を新派の子規派をはじめ尾崎紅葉らの新派、また伝統旧派までを広く見渡しながら興趣深く語り、俳壇に登場した。評判を得た。角田竹冷の秋声会に加わったが脱会した。

明治34年(1901年)8月、『半面』を創刊し、新々派と称し半面派を形成した。正岡子規の日本派や角田竹冷の秋声会などに対抗した。

著書「俳趣画趣」において、「写生式」に対し「図案式俳句」を唱えたが、大正4年(1915年)、中根岸に移ってからは俳壇とは没交渉の落ち着いた生活を送った。

俳句の史的研究を行い、多くの俳書を収集した。江戸中期から幕末にかけて隆盛した俳諧流派「江戸座」の俳諧書が中心に収集されている。旧蔵の俳諧書約450部は知十文庫として東京大学総合図書館に所蔵されている。

昭和7年(1932年)2月、体調を崩し、熱海で保養、鎌倉稲村ヶ崎黄鳥荘に転じてからは散歩などの静かな日々であったが、8月13日午後1時、胃がんのため死去した。72歳であった。法名は本覚院知十日法居士。墓所は東京都府中市多磨町の多磨霊園。

家庭は円満、四男四女をもうけたが、不幸にして先だった五人の子供の名も墓誌に刻まれている。一周忌の記念に贈られた雪、月、花の句碑のひとつ、月の句碑は江東区冬木弁財天境内に、花の句碑は北区王子の飛鳥山公園にある。

著作に『可愛良集』初篇(1883年)、『雨華抱一』(1900年)、『晋其角』(1900年)、『俳諧風聞記』(1902年)、『俳趣と画趣』(1905年)、『玉菊とその三味線』(1920年)、『鶏旭』第1-2集(1921年)、『湯島法楽』(1924年)、『蕪村その他 俳諧一家言』(1924年)、『味余』(1934年)などがある。編著に『一茶大江丸全集』『也有全集』などがある。没後に句集『鶯日』が刊行された。

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参考にさせていただいたWebサイト様
岡野知十 -- Wikipedia 知十文庫(岡野知十) -- ドイツ-日本研究所 岡野知十 -- 大塚英良の墓碑見聞録

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名岡野敬胤
別姓木川
別号正味
通称正之助
生没1860 〜 1932

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