江森月居 (えもり げっきょ)
俳人の説明
管理人による説明
生涯
江森月居は宝暦6年(1756年)、京都に生まれた。名は史一(師心とも)である。別号に竹巣、些庵、三巣園、桂川などがある。
安永の頃、20歳頃に荒木田久老および村田春門の門人として国学を学び、あわせて与謝蕪村の門人となった。俳諧は入門後に頭角を現し、1776年(安永5年)には高井几董(きとう)と共に入集した。蕪村からは「月居、夜半亭門人、俳諧の好士なり」と評された。蕪村の死後、几董からも「風流なる哉三巣園、達者なる哉月居」と賞賛され、高井几董と共に蕪村門の双璧と称された。
その後は宗匠として畿内を中心にその勢力を広めた。1790年(寛政2年)、二条家俳諧において右方宗匠に就き、「俳諧之達者中興之器」の称を許された。この時、二条家に30両の賄金を奉納したという。大阪に移った後は摂北・両丹・若狭地方に勢力を拡大した。
しかし、月居の密通を告発する捨文によって一時身を隠すこともあった。文政7年9月15日(1824年11月5日)に没した。享年69(満68歳)。墓所は左京区金福寺である。
俳句歴
月居は蕪村の門人として早くからその才能が認められ、蕪村の没後は一門を統率した。蕪村の高弟として、高井几董と共に蕪村門下の中心的存在であった。
当初は蕪村の影響を受けた格調高さが見られたが、寛政文化期には当時流行した俳風へと変化した。ただし、当時の主流にはならなかった。一方で「発句はともかく、日本の宗匠は月居」と江戸で評判となり、鈴木道彦、尾張の士朗と共に大宗匠として名を馳せた。この三名は三大家(東の道彦、中京の士朗、西の月居)の一人に数えられた。
月居は付合の技量に優れ、擬古文調の俳文にも優れた。蕪村死後は自派の勢力の拡大に努め、寛政2年(1790年)には二条家俳諧宗匠の朱印免状を与えられた。同年、加藤暁台、井上士朗と銅駝御殿に召され、百韻の連句を興行した。
月居の作風は、蕪村譲りの格調の高さと、連句における付合の巧みさを特徴とした。発句よりも連句の宗匠として高い評価を受けた。
主な著作には『月居七部集』(没後の1828年〔文政11年〕刊行)、『夜明かし』などがある。
その他の特記事項
月居は与謝蕪村の門下として、蕪村が1776年に再興した金福寺の芭蕉庵での句会にも参加した。蕪村とは師弟として深い関係にあり、蕪村の墓がある金福寺に月居の墓も営まれている。金福寺の墓域には、師である蕪村の墓の周囲に、門人である月居、松村呉春、呉(松村)景文、吉分大魯の墓が並んでいる。
月居の句には「花に来て飯くふひまや松の風」「長閑さは障子のそなたこなたかな」「朝霧にまぎれて出む君が門」「敗軍の五六騎蓑をうちかづき」などがある。「花に来て飯くふひまや松の風」は、花見弁当を味わいたいところだが、まだまだ自由にというところに至っていない様子を詠んだ句とされる。
月居は蕪村門下の中でも特に連句の付合に優れた宗匠として、畿内を中心に大きな影響力を持った俳人であった。
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バイオ
現在、2句の俳句が登録されています。
- かをふみて らんにおどろく やまじかな
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蘭
らん
季節: 秋(仲秋) 分類: 植物(キジカクシ目) -
新版 角川俳句大歳時記 秋p.628
- とのいして むかえはべりぬ きみがはる
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初春(新年)
はつはる
季節: 新年(新年) 分類: 時候(暦) -
虚子編 新歳時記 増訂版p.3