早野巴人 (はやの はじん)
俳人の説明
管理人による説明
生涯
早野巴人は延宝4年(1676年)、下野国那須郡烏山(現在の栃木県那須烏山市)に生まれた。延宝5年(1677年)の生まれとする説もある。本名は忠義、通称は甚助である。のちに夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)と改めた。別号には郢月泉(えいげつせん)などがある。
幼くして江戸に出て俳諧の道を志した。宝井其角と服部嵐雪に師事し、百里、祇空らと交わった。元禄7年(1694年)の頃には、「竹雨」の号での初見の句も見られている。元禄2年(1689年)には、松尾芭蕉の『奥の細道』の足跡を辿って旅をした。
享保12年(1727年)、京都に移住し、宋屋らを導いた。京都俳壇にその地位を築き、約10年間京都に滞在した。元文2年(1737年)、砂岡雁宕(いさおか がんとう)の誘いにより江戸へ戻り、夜半亭を日本橋本石町(こくちょう)に構えた。この時に号を宋阿とした。
この頃、江戸に出てきた与謝蕪村が門人となった。巴人の人格と識見は蕪村を大いに感化し、蕪村と親交があり、後の天明俳壇革新に力があった。寛保2年6月6日(1742年7月7日)、夜半亭にて病没した。享年67。辞世の句は「こしらへて有りとは知らず西の奧」である。
俳句歴
巴人は其角と嵐雪という蕉門の二大俳人に師事し、江戸俳壇で活動した。師の没後、江戸俳壇にあって世俗をきらい独自の風格を保った。俗化する俳壇にあって清高の気品を保ち、その作風は平静淡雅であると評された。
巴人の時代は、縁語などを駆使した比喩俳諧が顕著に見られ、省略(抜け)などを巧みに取り入れての滑稽句が盛んに横行していた時代であった。巴人の句にも仕掛けが施されており、比喩や言葉遊びを用いた技巧的な句が多い。一方で、時に客観写生的な句も見られ、こうした句が後に蕪村によって継承されていった。
巴人は京都移住後、京都俳壇に地位を築いたが、晩年再び江戸に下り日本橋石町の夜半亭に居を定めた。夜半亭を結び、蕪村、雁宕らを育てた。蕪村は巴人を俳諧の師として深く敬い、巴人の像を描いた唯一の絵画が残されている。
巴人の句は、その十三回忌に編纂された『夜半亭発句帖』所収の287句が、現在主として鑑賞されている。編著には「一夜松」「辛酉歳旦」「誹諧桃桜」があり、句集には「夜半亭発句帖」(没後、雁宕らが編集)がある。
巴人の句は写生的な要素も持ちながら、比喩俳諧の技法を駆使した多彩な世界を見せる。現代俳句にも通ずる客観写生的な句から、言葉遊びを用いた滑稽句まで、万華鏡のような多様な作品を残した。
その他の特記事項
巴人は芭蕉と蕪村との間を結ぶ時代(享保の時代)の重要な俳人である。研究者の潁原退蔵(えはらたいぞう)は「巴人は巴人として俳諧史上重要な地位を保つものではない」と評したが、一方で、当時の一線級の作家との評価もある。ドナルド・キーンは巴人を「二線級の作家」としたが、これは潁原退蔵の影響によるものと理解できる。
巴人の句には、明治期以降に写生があるとして評価されるようになったが、当時の比喩俳諧の文脈を理解しなければ、句意を正確に捉えることは難しい。巴人の句を理解する際には、単に何かを写生しているというよりも、何かを比喩しているのではないかということを常に念頭において接する必要がある。
巴人の故郷の栃木県那須郡烏山町(現在の那須烏山市)の那珂川河畔には、巴人句碑「落鮎や水に酔たる息づかひ」が建立されている。詩人・草野心平の書によるものである。
巴人が創始した夜半亭は、二世として蕪村に受け継がれ、三世として高井几董(きとう)に継承された。蕪村は巴人から「自在なる心」を学び、それが後の天明調俳諧の確立に大きな影響を与えた。
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バイオ
現在、3句の俳句が登録されています。
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いわしぐも
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新版 角川俳句大歳時記 秋p.88
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虚子編 新歳時記 増訂版p.564
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初春(新年)
はつはる
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文藝春秋 最新俳句歳時記 新年p.14