花田春兆 (はなだ しゅんちょう)
俳人の説明
管理人による説明
生涯
花田春兆(本名・政國〔まさくに〕)は1925年10月22日、大阪府に生まれた。祖父は海軍大佐・鉱業家の花田満之助、父は横浜税関長・大蔵省専売局長官を務めた花田政春である。出生時からの脳性麻痺により言語障害と歩行・起立不能の障害を負い、当時の医学では十二歳までの生存も難しいとされたが、91歳まで生きた。1934年、日本で最初の肢体不自由児学校とされる東京市立光明学校(現・都立光明学園)に入学し、小学校課程修了後は補習科に進んで1939年に卒業した。長く東京都港区(元麻布)に在住し、電動車椅子を得てからは図書館や福祉会館などへ自ら赴いて活動した。1965年に下島裕子と結婚し、二人の子(姉弟)に恵まれた。2000年、港区の特別養護老人ホームに入所し、施設内の陶芸クラブでの活動を通じて句と陶芸を組み合わせた「陶俳画」を創作するようになった。2017年5月13日、世田谷記念病院にて91歳で死去した。
俳句歴
1947年、光明学校研究科時代の友人らを軸に、障害者による文芸同人誌「しののめ」を創刊し、編集にあたった。1954年に俳誌「萬緑」に参加し、中村草田男に師事した(資料により1957年参加とするものもある)。萬緑新人賞のほか、角川俳句賞推薦、俳人協会全国大会賞、萬緑賞を受けるなど、俳人としての地位を確立した。1963年には、重症児の安楽死をめぐる論争において水上勉の「拝啓・池田総理大臣殿」に対し「切捨御免のヒューマニズム」を発表して異を唱え、有名人の発言のみが注目される風潮や、障害者施設の建設が著名人の力によって左右される実情を批判するなど、障害者自身の立場からの発言を続けた。1975年には障害者史シリーズの第一弾として『鬼気の人-俳人富田木歩の人と作品』を刊行し、同じく障害を抱えながら夭折した俳人・富田木歩の生涯と作品を論じた。1979年には句文集『折れたクレヨン・私の身障歳時記』を刊行し、自身の障害と俳句を織り交ぜた作品を発表している。2000年代以降は陶芸と俳句を融合させた「陶俳画」の制作・展示にも力を注ぎ、2002年には喜寿記念俳画展を赤坂いちょう画廊で、2007年には句集『喜憂刻々』刊行を記念した陶俳画展を銀座で開催した。2014年からは母校・光明学園の公開講座「光明アカデミー」で俳句講師を務め、2016年には句集『まほろば』を刊行。長年参加した「萬緑」が2017年3月に終刊するまで句作を発表し続けた。
その他の特記事項
俳句活動と並行して、障害者福祉運動や障害者文化史研究でも大きな足跡を残した。1971年に身体障害者団体定期刊行物協会を設立し、低料第三種郵便制度の適用を実現させた。1980年には国際障害者年日本推進協議会(現・日本障害者協議会)副代表に就任し、1981年には国際障害者年記念総理大臣表彰を受けた。1982年には総理府障害者対策推進本部(現・内閣府障害者施策推進本部)参与を務めた。1990年に来日した物理学者スティーヴン・ホーキング博士とコミュニケーション機器を介して対話したという逸話も残る。1995年には朝日社会福祉賞を受賞した。著書に『いくつになったら歩けるの』『脳性マヒの本』『雲へのぼる坂道-車イスからみた昭和史』『日本の障害者-その文化史的側面』など多数があり、日本障害者協議会顧問、日本障害者リハビリテーション協会評議員なども歴任した。
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バイオ
現在、1句の俳句が登録されています。
- われもこう しをえらべしが とものおごり
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吾亦紅
われもこう
季節: 秋(仲秋) 分類: 植物(バラ目) -
平井照敏編 新歳時記 秋p.377