攝津幸彦 (せっつ ゆきひこ)
俳人の説明
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生涯
1947年(昭和22年)1月28日、兵庫県養父郡八鹿町に生まれる。幼少期から中学生の半ばまでは甲子園球場の近くに住み、下校後にはタイガースの寮を訪れ、選手に遊び相手をしてもらうこともあったという。母・良子(摂津よしこ)は桂信子主宰の俳誌「草苑」の幹部同人で、1980年に角川俳句賞を受賞している。
高槻中学校・高等学校を経て関西学院大学を卒業した。高校時代には叔父の影響でジャズを聞くようになり、ジャズ喫茶に頻繁に通った。大学では映画研究会に所属する一方、伊丹啓子(「青玄」主幹・伊丹三樹彦の娘)と知り合い「関学俳句会」を創立し、機関誌「あばんせ」を創刊した。また学生俳句会のつながりから、他大学の坪内稔典、澤好摩らと交流し、大学の枠を超えた同人誌「日時計」創刊に参加した。
1970年、広告会社の東京旭通信社(現・ADKホールディングス)に入社して上京した。1972年、田中資子と結婚した。1992年より肝炎で入退院を繰り返し、1996年、順天堂病院にて死去した。享年49。
俳句歴
20歳の時、坪内稔典、澤好摩とともに「日時計」を発刊し、同人として本格的に俳句を始めた。1974年、大本善幸、坪内稔典らと「黄金海岸」を創刊した。同年、「鳥子幻影」で俳句研究「第二回五十句競作」にて佳作第一席となり、編集長・高柳重信に見出されて一躍注目を集めた。1980年、俳誌「豈」の創刊に仁平勝らとともに参加し、編集発行人を務めた。同誌は遅刊で知られたものの、前衛俳句の一大拠点となった。
俳句を意味の中だけで完結させることを嫌い、自立した言葉同士が邂逅することによって生まれる新しい叙情性を追求した。作品には明治・大正から戦前・昭和戦後の日本の原風景を素材としたものが多く、なかでも「幾千代も」「南国に」の句を含む「皇国前衛歌」と呼ばれる一連の作品群は、言葉から出発して俳句におけるフィクション表現を完成したものとして評価されている。
句集に『姉にアネモネ』(1973年)、『鳥子』(1976年、ぬ書房)、『鳥屋』(1986年、冨岡書房)、『陸々集』(1992年、弘栄堂書店)、『鹿々集』(1995年)がある。没後、『攝津幸彦集』(1994年、ふらんす堂)、『攝津幸彦全句集』(1997年、沖積舎、2006年改版)、『攝津幸彦選集』(2006年、邑書林)が編まれた。仁平勝による評伝『路地裏の散歩者』(邑書林、2014年)もある。
その他の特記事項
歌人の岡井隆は、著書『詩歌の岸辺で』の中で、田中裕明について論じた文章の中で攝津幸彦にも言及している。岡井は、関西の俳人としては裕明よりも攝津幸彦に注目していたことを回想し、両者が『現代俳句の精鋭』(牧羊社、1986年)第Ⅱ巻にともに収録されていたことを紹介した。同書に寄せた自己紹介文で、攝津幸彦は甲子園球場近くで過ごした少年時代について触れている。
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バイオ
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- みなみうらわの だりやをかりの あわれとす
-
ダリヤ
だりや
季節: 夏(晩夏) 分類: 植物(キク目) -
新版 角川俳句大歳時記 夏p.692