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俳人の説明

管理人による説明

大正から昭和にかけて生きた俳人。伊藤柏翠に師事し、高浜虚子の写生文「虹」のヒロインとして知られる。

生涯

1917年(大正6年)11月18日、福井県坂井市三国町で回船問屋を営む豪商・森田三郎右衛門の娘として生まれる。裕福な家庭で何不自由なく育ち、1930年(昭和5年)に福井県立三国高等女学校に入学、1934年に卒業後、東京の実践女子専門学校国文科に入学するが同年中に中退し、三国高等女学校研究科に編入、1936年に同校を優秀な成績で修了した。

1938年(昭和13年)、20歳の春に肺結核と診断され、神奈川県藤沢町鵠沼に母とともに療養のため転居した。1939年、鎌倉市七里ケ浜の鈴木療養所に入所し、気胸療法を受けた。1940年(昭和15年)1月、同療養所で高浜虚子門下の伊藤柏翠と出会い、柏翠のすすめで俳句を始めた。同年、「ホトトギス」5月号、「玉藻」8月号に相次いで初入選した。1941年1月には柏翠とともに高浜虚子宅を訪問し、鎌倉俳句会の松本たかし、星野立子らとも交流を深めた。同年9月、戦時中の物資不足もあって、父のすすめで三国町へ帰郷する。

帰郷後も句仲間と句会や吟行を重ね、1942年には皆吉爽雨、坪内美佐尾とともに東尋坊、雄島へ吟行した。同年、柏翠がたびたび三国を訪れて指導にあたった。1943年11月、各地の句会をめぐる旅の途中で三国を訪れた虚子は、愛子を見舞い、永平寺参拝の後の句会を経て、愛子とその母、柏翠、坪内美佐尾を山中温泉「よしのや」での句会に招いた。その帰路、山中温泉から虚子を敦賀まで見送る途中に虹が立つのを見たことが、後に虚子が愛子を描いた写生文「虹」の発端になったとされる。

1945年(昭和20年)2月、柏翠は鎌倉の鈴木療養所を退所して三国へ疎開し、はじめは寺に下宿していたが、のちに愛子の家に移り住んだ。同年、虚子が娘の立子、息子の年尾とともに三国を訪れ、柏翠、愛子、三好達治とともに愛子宅で句会を行い、虚子は愛子宅2階の座敷を「愛居」と命名した。愛子は柏翠とともに、三好達治、多田裕計、畠中哲夫ら、当時三国に疎開していた文人たちとも交流した。また、鎌倉在住の頃には小諸で開かれた「ホトトギス」六百号記念会にも足を運んでいる。

1946年8月、病状がさらに進んで寝たきりとなった。虚子は愛子を見舞い、「虹」の原稿を読み聞かせた。1947年(昭和22年)4月1日午後4時50分、結核のため29歳4か月で死去した。臨終の日の午後には、家族に身体を気遣うよう言い残したという。愛子の墓は、寿福寺(鎌倉)、月窓寺(三国)、性海寺(三国、森田家の菩提寺)、高野山奥の院の4カ所にある。命日の4月1日には、月窓寺、瀧谷寺などで愛子忌が営まれている。

俳句歴

伊藤柏翠に師事し、「ホトトギス」「玉藻」に入選を重ねたほか、武生市の嵯峨柚子主宰によるホトトギス系俳誌「櫨子」にも参加した。死後、句集『虹』(森田愛子・伊藤柏翠著、七洋社、1949年)が刊行されたのをはじめ、『愛子全句集』(伊藤柏翠編、豆本の会、1966年)、『森田愛子全句集』(伊藤柏翠編、北荘文庫、1969年改訂版)など、複数の句集・全句集が編まれている。詩人の三好達治は愛子を敬愛し、その句を随筆の中で繰り返し取り上げて論じている。

その他の特記事項

高浜虚子は愛子をモデルとした写生文「虹」を執筆し、川端康成はこの作品を高く評価する文章を残した。福井県坂井市三国町の東尋坊、瀧谷寺、性海寺には愛子の句碑が建てられている。2008年5月25日には、愛子の生涯を描いたラジオ番組「虹の人 俳人森田愛子の半生」が福井放送(FBC)で放送された。

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参考にさせていただいたWebサイト様
森田愛子 -- Wikipedia 虹の人 俳人森田愛子の半生 -- 放送ライブラリー 惜春 -- 遊星通信(南政次)

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別女性
出身地福井県坂井市
出身地(旧地名)福井県坂井市三国町

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