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俳人の説明

管理人による説明

高野素十に学んだ写生俳句の実践者。別府大学教授を務めた。

生涯

倉田紘文は、1940年1月5日に大分県杵築市山香町に生まれた。本名はひろふみであるが、俳号はこうぶんと読む。父が中塚一碧楼に師事した俳人であったため、幼少期から俳句に親しむ環境にあった。

大分大学学芸学部技術科を卒業後、1959年、19歳の時に耶馬渓で行われた「芹」九州俳句大会にて高野素十に出会い、師事することとなった。その後「芹」に入会し、俳句修行を重ねた。1972年、32歳の時に素十の勧めにより俳誌「蕗」を創刊し、主宰となった。「蕗」は大分県別府市からの発行で、師素十亡き後の「芹」会員たちも参加し、二千人という会員を擁する結社となった。同人制はとらず、会員一人一人が皆平等という方針を貫いた。

1983年には別府大学教授(国文学)に就任し、約25年間にわたり研究活動と教育に従事した。1998年頃から身体の不調を訴えるようになり、退職後は俳句活動に専念した。のちに別府大学名誉教授の称号を受けた。

2014年6月11日に逝去。享年74であった。

俳句歴

倉田紘文の俳風は、師である高野素十の教えを貫き、平明でありつつ詩情のある写生句を作ることに徹した。素十は虚子から「客観写生真骨董漢」と言われた人物であり、紘文もまた「純客観写生」を生涯の指針とした。「さあ、自然を詠おう」ではなく「さあ、また自然に学ぼう」という言葉に、紘文の俳句に対する姿勢がよく表れている。

1978年より大分合同新聞俳壇選者、1992年より山陽新聞俳壇選者を務めた。1998年にはNHK俳壇主宰・選者、およびBS俳句王国主宰に就任し、全国的な活動を展開した。ある時、師素十より「衣を着せずに申し上げます。俳句が下手になった様な感じを受けます。しっかりして下さい」という手紙を受け取ったが、次の号の「芹」では巻頭となった。紘文はこの師の言葉を隠すことなく句集に載せ、生涯の作句上の指針とした。

代表句に「秋の灯にひらがなばかり母の文」「蛍待つ闇を大きく闇つつむ」などがある。前者は病後の母からの短い手紙を詠んだもので、「芹」雑詠で初めて巻頭となった句である。素十は「平仮名で書く母の文、それは全く悲母という言葉にふさわしいのである。あるものは只母と子との愛とその姿とだけである。この句々はそんな美しい感銘がある」と評した。

句集には『慈父悲母』(木耳社、1976年)、『光陰』(牧羊社、1983年)、『無量』(富士見書房、1989年)、『帰郷』(牧羊社、1993年)、『都忘れ』(朝日新聞社、1997年)、『水輪』(角川書店、2006年)などがある。

その他の特記事項

倉田紘文は俳人としての活動のみならず、国文学研究者としても業績を残した。専門は国文学で、近代俳句を中心とした韻文、特に子規・虚子・高野素十と続く写生俳句に関する研究を行った。著書には『高野素十の世界』『高野素十研究』などの評論、『俳句独習』『俳句作法』などの入門書、『花の歳時記』『山の歳時記』などの歳時記、『子ども俳句歳時記』などの教育書がある。

受賞歴として、1993年大分合同新聞文化賞(芸術文化部門)、1999年第39回久留島武彦文化賞、2001年ゴールドベルグ大芸術家賞を受賞した。日本文芸家協会会員、俳文学会会員、日本詩歌文学館評議員、俳人協会理事、国際俳句交流協会評議員などを歴任した。

別府大学では図書館長(1982年4月から1998年3月)も務め、教育行政にも貢献した。第13回国民文化祭大分大会文芸大会俳句部門においても中心的な役割を果たした。紘文の俳句は、自然との深い対峙から生まれた、素朴で誠実、そして謙虚な写生句として、多くの人々に親しまれた。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
倉田紘文先生近影 -- 別府大学リポジトリ 倉田紘文 -- Wikipedia ●倉田紘文の世界 -- 楽天プラザ

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名ひろふみ
生没1940 〜 2014

現在、4句の俳句が登録されています。

    • 素十忌 すじゅうき
      季節: 秋(仲秋) 分類: 宗教(忌日)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 秋
      p.120
    • 貝割菜 かいわりな
      季節: 秋(仲秋) 分類: 植物(アブラナ目)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 秋
      p.194