荒木田守武 (あらきだ もりたけ)
俳人の説明
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生涯
荒木田守武(あらきだ もりたけ)は、文明5年(1473年)、伊勢神宮内宮の神主家である荒木田一門薗田氏の出身として生まれた。父は荒木田守秀(内宮三禰宜)、母は荒木田(藤波)氏経の娘である。兄に荒木田守晨がいる。通称は中川平太夫と称した。
15歳の時に正員禰宜に加わり、天文10年(1541年)4月には内宮一禰宜に昇進し、薗田長官と呼ばれた。群雄割拠が激しい戦国時代という神宮多難の時期に内宮祠官(神官)として、仮殿遷宮の早期実現に力を尽くすなど神宮行政を行い、炎天続きのための祈祷を行って「民間之愁」を休めるなど、禰宜職として多くの業務を果たした。
守武は禰宜職を務める一方で、連歌や俳諧といった文学活動にも力を注いだ。天文18年(1549年)8月8日(旧暦)に病没した。享年77歳であった。
俳句歴
守武は13歳の時に連歌師宗祇の連歌集『老葉』を筆写するなど、最初は連歌をよくたしなんでおり、その才能には優れたものがあった。それから10年後には兄の守晨とともに準勅撰の連歌集『新撰菟玖波集』に一句入集を果たしている。三条西実隆に連歌を師事し、宗祇や宗長と交流があった。
連歌全盛の時期、守武の名を高めたのは、4年がかりの推稿の末に仕上げた『守武千句』(『俳諧之連歌独吟千句』『独吟千句』『飛梅千句』とも呼ばれる)の達成である。天文9年(1540年)に完成したこの作品は、連歌の余技でもあった俳諧を独立の文芸の境地へと高め、俳諧の形態を確立する嚆矢となった。この功績から、守武は『新撰犬筑波集』の撰者である山崎宗鑑とともに「俳諧の始祖」「俳祖」とされている。後の松尾芭蕉を「俳聖」と称するのに対し、守武を「俳祖」とたたえる所以である。
『守武千句』以外にも、永正5年(1508年)の「法楽発句集」をはじめとする連歌集、享禄3年(1530年)の「独吟百韻」などの俳諧集、大永5年(1525年)の教訓歌集『世中百首』など多くの著作物を残した。『世中百首』は「伊勢論語」と称賛され、広く知られている。その他、一夜で百首を詠みあげた作品や、連歌師宗長の訃報を聞き日を置かずに追悼の連歌を詠んだ『宗長追善千句』、最晩年の独吟『秋津州千句』などがある。
その他の特記事項
守武の俳諧に対する熱意と文学愛好者たちとの交遊が、後年に「伊勢風」と呼ばれる俳諧の作風の原点となった。
守武の歌風は洒脱にして垢ぬけていても決して俗っぽくはなく、風雅と気品に特徴があるが、決して孤高さは感じられないものであった。
辞世の和歌は西行法師の和歌から本歌取りしたものと思われ、重責のある神官の家に生まれ、その生涯のほとんどを神宮神域で過ごした守武であったが、辞世の句には漂泊の歌人西行法師への憧れが窺える。
代表句として「散る花を南無阿弥陀仏と夕哉」が知られる。
現在、伊勢市の神宮会館には守武没後410年を記念した句碑が建立されている。
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バイオ
現在、1句の俳句が登録されています。
- とびうめや かろがろしくも かみのはる
-
初春(新年)
はつはる
季節: 新年(新年) 分類: 時候(暦) -
平凡社 俳句歳時記 新年p.5