松本松碧楼 (まつもと しょうへきろう)
俳人の説明
管理人による説明
生涯と俳句歴
松本松碧楼は、昭和6年(1931)、34歳で没した。「ホトトギス」・「渋柿」・「曲水」・「雲母」などの俳誌で活躍し、大正11年から昭和2年にかけて、村上東洋城・枯山楼・村上霽月・酒井黙禅を迎えての句会などの世話人として奔走した。
昭和5年11月20日、南予俳句大会が愛宕公会堂で行われた際、松碧楼はこの俳句大会応募句稿およそ250句を携えて別府へ行き、講演旅行中の高浜虚子に、別府から松山へ向かう紫丸船中で面会を求め、その選を得た。これは彼が逝去するわずか3か月前のことであった。
この年の晩秋、彼は「八幡浜俳壇史」をまとめており、没後刊行された『松本松碧楼句集』(句友たちの編集、未亡人松本つなを発行)の付録となって発刊された。松碧楼の妻つなをも「つな女」と号して俳句をよくし、「ホトトギス」雑詠にも多数入選している。
その他の特記事項
大正初年、八幡浜商業学校内に「柳会」改め「椿会」(渋柿系)、やや遅れて青年層の「木犀吟社」(ホトトギス系)があり、大正7年、東洋城の命名で「初潮会」の名で両者合同、「渋柿」系の会となった。松碧楼はこの八幡浜俳壇の黄金時代を代表する俳人の一人であった。
松碧楼は西村泊春について、「その生一本で真面目な人がらから、澄徹した古沼の感じのする作品を残した」と評している。松碧楼・西村泊春・毛利明流星はいずれも30代前後の若さで、その才を惜しまれつつ、八幡浜の地で没した。三人とも期せずして、市内の金融機関につとめ、いずれも結核に冒されて夭折した。
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バイオ
現在、1句の俳句が登録されています。
- ちりしあとに いっぴきにひき やなぎはえ
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柳鮠
やなぎはえ
季節: 春(三春) 分類: 動物(魚類) -
虚子編 新歳時記 増訂版p.113